3人のアメリカ大統領【小松達也アーカイブス 第6章】

同時通訳のパイオニアで、サイマル・インターナショナル創業者でもある小松達也さん。小松さんの通訳や語学にまつわるエッセイを集めた「アーカイブス」シリーズは、大好評につき、いよいよ6章に突入です。今回は、60年代から70年代のアメリカ大統領3人と当時のアメリカをテーマにお届けします。

第35代 ジョン・F・ケネディ

ドナルド・トランプがアメリカ大統領に選出されました。
私が初めてアメリカへ行った1960年も大統領選の真っ只中で、11月にジョン・F・ケネディが第35代大統領に選ばれました。リチャード・ニクソンとの大接戦に勝って、ワシントンD.C.が沸き立っていたのを覚えています。人で溢れたホワイトハウス前の広場の片隅に立ち、アメリカの国民が旗を振って大騒ぎをしているのを見て「ああ、アメリカへ来たんだ」と実感しました。

その直後、カストロのキューバが当時のソ連からミサイルを取りよせアメリカ向けに取り付けるという事件が起こり、対抗してアメリカがキューバに艦隊を派遣するという事態に発展しました。当時私はワシントンに住んでいましたが、多くの人たちが「すわ、第3次大戦か」と危機を感じたのは事実です。ソ連が速やかにミサイルを撤去し、事なきを得ました。

とはいえ、60年代前半は「若者の時代」といわれ、アメリカ社会は希望に溢れていました。しかし1963年11月22日、ケネディがダラスで暗殺されるという事件が起きました。当時私はアメリカ国務省の通訳の仕事をしていましたが、仕事の移動中の飛行機内で機長が 

“Ladies and gentlemen, I very much regret to tell you“ 

と深重に話しだしたので「あっ、これはなにか故障なのでは……」とどきっとしました。すると続けて

 “that President Kennedy was just assassinated in Dallas.” 

とアナウンスしたのです。その時の衝撃は忘れることができません。

やがて飛行機は次の着陸地、カジノの街ラス・ベガスにつきました。この日はスロット・マシーンも全て壁向きに並べられ、私は沈鬱な気分でブラックジャックのテーブルに座り、ディーラーとしばし向き合っていました。スロット・マシーンが閉じられたのは、ラス・ベガスの歴史上、この日が唯一の日だったそうです。私は歴史的な日に遭遇したことになります。

(左から)ジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン、リチャード・ニクソン元アメリカ大統領

第36代 リンドン・ジョンソン

ケネディのあとは、テキサス州選出の上院議員から副大統領になっていたリンドン・ジョンソンです。暗殺の直後、深刻な顔で司教から大統領の任命を受けていたジョンソンの顔を思い出します。アメリカでは彼の通訳もさせてもらいました。

ジョンソンは1969年まで大統領を努めましたが、当時のアメリカは政治・軍事的にも安定し、経済的にも夢のような豊かなところでした。1965年DC-8(※1)でサン・フランシスコについた私は、初めてスーパーマーケットなるものを訪れて、その物資の豊かさに驚嘆しました。日本では高価だったバナナが、大きな一房が1ドル以下で買えるのが嬉しくて、しばらくはバナナばかり食べていました。今、時々妻と近所のスーパーマーケットを訪れるとその頃のアメリカのことを思い出します。当時の日本とアメリカの経済力の差は大きなものでした。自動車をとってみても、日本では個人で自動車を持っている人はほとんどいませんでした。アメリカでは自動車所有は一家に一台以上という状況でした。ワシントンに住んでいた私たちは、最初の車としてフォードが出した初代のマスタングを買いました。大衆車でしたが、スポーツカーのようなかっこいい車でした。

私は1965年までアメリカに住んでいましたが、個人的にはその頃のアメリカが一番いい時代ではなかったかと思います。ちょうどアメリカを去る頃から、ベトナム戦争反対のデモが各地で行われるようになりました。ジョージ・ケナンの「ドミノ理論」などの影響でベトナムへの派兵が拡大され、1964年11月にアメリカによる北爆が開始され、アメリカはベトナムの泥沼にはまり込むことになっていったのです。当時アメリカの各地でベトナム戦争反対の運動がさかんになり、特に大学では学生による反対デモが行われていました。アメリカの民主主義の健全な表れだったと思います。

第37代 リチャード・ニクソン

帰国後、私は同じく1965年創設のサイマル・インターナショナルで、政府機関からの通訳の依頼で多忙な日々を送るようになりました。この頃からテレビ番組の同時通訳付き中継も行われるようになり、私も1973年にはリャード・ニクソン大統領によるベトナム戦争停戦宣言をテレビで同時通訳しました。このベトナム戦争は、世界における超大国アメリカの印象を少し変えたように感じます。

話は逸れますが、元国務長官ヘンリー・キッシンジャーは、当時ニクソン大統領の特別補佐官をしていて、その時代から何度か通訳させてもらいました。日本で初対面した時の彼の丁寧な態度にはとても感心させられたものです。

 

60年代から70年代を生きたケネディ、ジョンソン、ニクソンというアメリカの3人の大統領は、今もアメリカでの日々と共に私の記憶に住み着いています。


※1:アメリカのダグラス・エアクラフト社が開発した初のジェット機。美しいフォルムから「空の貴婦人」の呼称も。

※この記事は2016年11月および2017年2月にサイマル・インターナショナルのWeb社内報に掲載されたものを一部編集し、再掲載しています。

 

 

小松達也さん
小松達也(こまつたつや)

東京外国語大学卒。1960年より日本生産性本部駐米通訳員を経て、1965年まで米国国務省言語課勤務。帰国後、サイマル・インターナショナルの設立に携わり、以後、社長、顧問を務める。日本の同時通訳者の草分けとして、首脳会議(サミット)、APECなど数多くの国際会議で活躍。サイマル・アカデミーを設立し、後進の育成にも注力した。サイマル関係者の間ではTKの愛称で親しまれている。

 

 

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