『日本法令外国語訳データベースシステム(英語名:Japan Law Translation。以下、JLT)』は、日本法令の翻訳を提供する法務省運営のウェブサイトで、信頼できる情報源として多くの翻訳者・通訳者が活用しています。
JLTの整備を主導されたのは、民間企業で企業法務に長年携わられたのち、日米有数の大学で教鞭をとられた柏木昇先生です。2023年には『法律文書の英訳術』(商事法務刊)を上梓され、法律文書を題材に翻訳のあるべき姿を世に問うていらっしゃいます。今回は先生に、JLT整備のエピソードもまじえて法律文書英訳のヒントを教えていただきました。
法令翻訳で重視したこと
――法令は契約書などの法律文書だけではなく、財務開示文書やプレスリリースなど様々な文書に登場することから、翻訳者もJLTを拠りどころにしています。JLTの訳文を作成する際に特に重視されたポイントは何でしょうか。
柏木先生(以下、柏):当たり前と思われるかもしれませんが、訳文だけを読んで「意味が通じる」ことです。利用者に意味が通じない訳文では翻訳の意味がありません。たとえば、JLTではローマ字を使った「翻訳もどき」を排除しています。「控訴」をkoso appealとするような例が以前にはみられましたが、日本語をアルファベット表記にするだけでは、日本語を知らない人に通じるわけがありません。また、想定利用者を法律家や法学者だけではなくビジネスパーソンにも広げたことから、一部の専門家にしか通じない難解用語の使用もできる限り避けています。
悩み抜いた訳語選び
――ご著書では様々な用語の翻訳について解説されていますが、「善意」「悪意」の訳語選定プロセスが特に印象的でした。JLTの『法令用語日英標準対訳辞書』でも注釈がつけられていますね。
柏:法律用語としての「善意」「悪意」は、翻訳する際の問題もさることながら、日本の法律用語の悪い部分が出た一例です。
日常語でもある「善意」「悪意」は、法律においては倫理的善悪とは無関係であり、単に(事情を)「知らない」「知っている」という意味である、と民法の最初の講義で教わります。しかし、法令によっては一般的な善悪の意味で使われるケースもあるため、整合的な翻訳が困難です。このように日常用語を法律家だけが異なった意味に使うことは混乱を招くだけであり、本来排除するべきです。法律は法律家だけが分かればよいのではなく、誰もが理解できるものであるべきです。
翻訳する際の問題とは、「善意」を例えばwithout knowledgeと訳す場合、英語としては「何について」知らないのかを補う必要が生じますが、これが条文や判例・学説から必ずしも明らかではないことです。かといって翻訳者の主観的解釈を加えては問題が生じます。
結局、この問題について良い解決策はなく、JLTでは「善意」をin good faith、「悪意」をin bad faithと、文字どおり善悪の意味が入った用語を選択しました。民法の先生に言わせれば間違いですが、他に適切な方法がないのです。標準対訳辞書でも、日本語が分からない利用者のために、「事情を知っているかいないかの意味で、“good” “bad” の意味はない」と英語で解説を付ければ親切だっただろうと思っています。日本と英米では法制度が違うので、概念が異なること自体は無理もないことですが、英語の解説を補うことで日本法令の外国語訳がより理解しやすくなるはずです。
――「意味が通じる」という翻訳の本質につながる話ですね。いっぽうで標準対訳辞書でも「金融商品取引業者」には長めの英語の注がついていますが、それだけ訳出に苦労されたということでしょうか。
柏:ここでいう「業」や「業者」は翻訳が難しい言葉です。日本の法律用語としての「業」は、営利目的か否かを問わず、「一定の目的をもって同種の行為を反復継続して行うこと」を意味します。この「業」を行う者が「業者」です。たとえば「運送」という行為を反復継続して行うことを「運送業」と言い、それに携わる者を「運送業者」と言います。いっぽう英語では「運送」はtransportation、「運送業者」はcarrierになるわけで、日本語のよう対応関係にはないのです。
「金融商品取引業」の訳はfinancial instruments businessでよいのですが、その「業者」の訳が問題でした。日本人の感覚からfinancial instruments business operatorと訳してよいと思ったのですが、英語ネイティブのアドバイザーは表現に強い違和感を抱きました。とはいえ、この訳語は金融庁を中心にすでに日本で定着していましたので、最終的にはこれを採用し、選択理由を標準対訳辞書に注釈することにしたのです。
――用語ごとにバランスを取って訳語を決められたわけですね。
柏:「金融商品取引業者」の例のように、英語ネイティブと日本人の意見が対立することも珍しくありませんが、結局はケースバイケースの判断になります。
日本の法学では、独仏の大陸法と同様に、概念をきわめて厳密に定義したうえで議論を進めます。したがって、同じ定義語には全て同じ訳を当てるべきだという考え方が強く存在します。いっぽう英米のコモンローではそのような定義をしません。たとえば日本語の「所有権」に対して、英語ではtitleやproperty right、ownershipなどの言葉を文脈に合わせて使い分けています。ひとつひとつの定義にこだわっても意味がないと考えるわけです。日本と英米のこのような対立は、法律学問に対するアプローチの違いによるものであり、根本的な解決が難しい問題です。
翻訳のヒントの宝庫『法令翻訳の手引き』
――JLTで公開されている『法令翻訳の手引き』では、英訳時に日本人が犯しやすい間違いを実例も交えて説明されており、翻訳者にとって非常に参考になる内容だと思いました。
柏:「端数」の訳語は良い例で、fractionを使うと思っている人が多いかもしれませんが、これは「1に満たない数」の意味であり、「10円未満の端数」などと言うときには使えないことが、適切な訳例とともに説明されています。市販の和英辞書に不適切な説明が載っていることもあるようで、それが誤解の元になっているのかもしれません。私も正しい意味を知ったときは目から鱗が落ちました。
――用語の選択の問題以外に、読みやすい英文を作成するコツとして、「挿入句による英訳は避ける」という項目も翻訳者にぜひ読んでもらいたいと思いました。
柏:企業法務で英文契約書を書けるようになると、挿入句を入れた方が法律の文章らしくなると思って挿入句を多用する人が少なくありません。しかし、長い挿入句は文章を読みづらくする原因になりますので、避けるべきです。
翻訳の本質は意味の伝達
――先生はご著書で、原文の1文を複数の文に分けて訳すことを、読みやすさと分かりやすさを優先させるため「躊躇しないで行うべきである」と述べられています。ただしそこには“法令条文の翻訳の場合を除いて”ともあり、実際『法令翻訳の手引き』では「条文(一文)の分割や、意訳は不適当」となっています。違いが生まれるのはなぜでしょうか。
柏:翻訳の目的が異なるからです。法令条文を翻訳するのは、行為規範の解釈の基礎となる資料を英語で提供するためです。そのため、できる限り客観的な翻訳が求められるのですが、文を分割すると翻訳者の解釈が入りこむ可能性が生じます。また、他の条文で引用する場合に分割が原因で意味が分からなくなる問題を避ける必要もあります。
いっぽう法令条文以外の翻訳は、その多くが事実や主張に関する情報の伝達を目的とします。この場合は、訳文の読者が内容を理解できなければ意味がありません。法律文書では非常に長い文を書く人が多く、なかには書いている途中で気が変わったのか、文の最初に出てくる主語に対応した述語が文中に見当たらないことすらあります。このような文はそのまま訳しても意味が通じる英語になりませんから、原文の意味を明確に理解したうえで、必要に応じて文を分割して意味の通じる英文に翻訳する必要があります。
――翻訳者は原文が言いたいことを明瞭かつ正確に理解できなければ、正しく訳せないということですね。あらゆる分野の翻訳に当てはまると思います。
柏:そうですね。とくに学術書にありがちなのですが、翻訳書を読むと「この翻訳者は原文の意味が分かっていないのではないか? 」と思うことがあります。翻訳書をいくら読んでも理解できないので、仕方なく原書を買って翻訳書と突き合わせながら読むと初めて理解できる──このようなおかしなことが起こります。まず原文が正しく理解できていないと、意味の伝達などできないわけです。そして理解した内容を訳文言語で明確に分かりやすく表現することが大切です。翻訳の本質は言葉の置き換えではなく、原文が伝えたいことを訳文言語で正しく伝えることにあります。
楽しみながら翻訳を学ぶ
――法律文書の英訳スキルを身につける上で、JLTをどう活用するのが効果的でしょうか。
柏:文脈検索を活用することをお勧めします。標準対訳辞書の見出し語だけでは語彙が足りないので補うという意味がありますが、それだけではなく、名詞と動詞の使い分けが理解できるようにもなります。日本語では定義を大切にするせいか名詞がよく使われる傾向がありますが、英語では文脈や前後関係に合わせて動詞で表現されることが多いようです。そのような用例が文脈検索で見つかりますので、見比べてみるとよいでしょう。
――『通訳・翻訳ブック』の読者にメッセージをいただけますか。
柏:翻訳は楽しいものです。「しっくりこない」「もっと良い表現があるのでは」と工夫する面白さがあります。思いがけない発見や学びの機会にもなります。JLTの会議で訳語を議論するときにも同じ気持ちを味わえました。文学の翻訳ほどではないにしても原文作成者と協力して新しい作品を生み出しているような感覚があります。読者の皆さんにも、同じ楽しさを感じながら翻訳に取り組んでいただければ何よりです。
――すでに翻訳者として活躍されている方、翻訳を勉強されている方にとって励みになると思います。本日はありがとうございました。
東京大学名誉教授、福島県いわき市出身。1965年東京大学法学部を卒業、三菱商事株式会社に入社。1984年から4年間ニューヨーク勤務。1993年三菱商事を退職、東京大学法学部教授就任。2003年東京大学を退職、中央大学法学部教授就任。2012年中央大学を退職。1996年から2001年の間に、ハーバード、コロンビア、ミシガン、他いくつかの米国ロー・スクールで短期間日本の商取引法を講義。
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