キッシンジャー氏の思い出【小松達也アーカイブス 第5章】

連載「アーカイブ・シリーズ」では、日本の同時通訳者の草分けでサイマル・インターナショナル創設者のおひとりでもある小松達也さんのエッセイを特集します。50年間にわたる現役通訳者時代のエピソード、プロ養成者の視点から見た通訳者についてなど、第一線を走り続けた小松さんならではの思いやことばをお届けします。

ヘンリー・キッシンジャーという人物

「ニクソン大統領の特別補佐官」とは別の顔

通訳は常に努力を続けなければならない厳しい仕事ですが、役得と言いますか、楽しいこともいくつかあります。その一つは、各界の指導的な人たちなど著名な人物に会えるということです。彼らは地位や実績のある人たちで「さすがだ」と思うことが多いのですが、通訳者として接していると、私たちと同じような人間的な側面も見ることができます。今回は、私が何回か通訳する機会のあったアメリカの元国務長官ヘンリー・キッシンジャーさんのことを書いてみましょう。

キッシンジャーさんが初めて来日したのは1972年か73年だったと思います。まだニクソン大統領の特別補佐官だった時です。彼は71年に大統領の密使として北京を訪問し、米中和解を成し遂げて一躍有名になりました。そのしばらく後に日本に来たのです。

私は成田から到着する彼を、ホテルのロビーで待っていました。やがて玄関に着いた彼は、車から降り立つと、車列を先導したパトカーの警官のところに歩み寄り、握手をして丁寧に礼を言ったのです。これには大変感心しました。彼は非常に優秀だが傲慢な人と思われていました。しかし、この時の彼の姿は、彼の別の面を表していました。

“I’m a politician.” の示すもの

京都の料亭にて。真ん中がキッシンジャー氏。

東京と大阪で講演し、公式行事が全て終わって京都へ行った晩のこと。主催者が料亭で接待してくれて、私も同行することになりました。この写真はその時のものです(私のなんと若いこと!)。薄茶やお菓子をいただいた後、舞妓さんが数人出てきて、私たちを取り囲みお酒を注いでくれました。そのうちの1人が「お客さん、何してはんの?」と聞きました。それを通訳してキッシンジャーさんに伝えると、彼はしばらく考え込んでいましたが、やがて “I’m a politician.” と答えました。彼は補佐官になる前、ハーバード大学で政治学の教授をしていました。外交の場で大きな業績をあげましたが、政治家というイメージはありませんでした。彼自身も迷っていたのではないかと思います。彼のこの答えは、彼が政治に強い関心を持っていたことを示しました。

彼の話はいつも洞察力に富んでいて面白く、非常に通訳のし甲斐があるものでした。それでも、いつも話の後には「私の英語はドイツ訛りで分かりにくいのが有名だが、今日の通訳者は正確に理解してくれた」とユーモアを交えて褒めてくれました。

彼と、田中角栄元首相の自宅を訪問した時のこともよく覚えています。確か1990年頃だったと思います。その頃、田中さんは政界を引退し、病気もされてもっぱら自宅に引きこもっていました。目白の田中邸を出てホテルに帰る車の中で、キッシンジャーさんは一言も言いませんでした。きっと淋しかったのだろうと思います。

2007年の春、久し振りに彼の通訳をする機会がありました。彼が泊まっていたホテルで当時の防衛大臣と会ったのです。私を見た彼は大変喜んでくれ、驚くほど饒舌に私に話してきました。あの偉丈夫なキッシンジャーさんも、さすがに年をとって、腰は少し曲がり、以前よりやや小さく見えました。会見が終わって別れるとき、手を握って「これからも元気で」と言ってくれました。

あのときの人懐っこい笑顔を、今も時折思い出します。


※この記事は2009年10月、サイマル・インターナショナルのWeb社内報に掲載されたものを一部編集し、再掲載しています。


小松達也さん
小松達也(こまつたつや)

東京外国語大学卒。1960年より日本生産性本部駐米通訳員を経て、1965年まで米国国務省言語課勤務。帰国後、サイマル・インターナショナルの設立に携わり、以後、社長、顧問を務める。日本の同時通訳者の草分けとして、首脳会議(サミット)、APECなど数多くの国際会議で活躍。サイマル・アカデミーを設立し、後進の育成にも注力した。サイマル関係者の間ではTKの愛称で親しまれている。

 

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