前野良沢と杉田玄白 翻訳書『解体新書』での役割【小松達也アーカイブス 第5章】

連載「アーカイブ・シリーズ」では、日本の同時通訳者の草分けでサイマル・インターナショナル創設者のおひとりでもある小松達也さんのエッセイを特集します。50年間にわたる現役通訳者時代のエピソード、プロ養成者の視点から見た通訳者についてなど、第一線を走り続けた小松さんならではの思いやことばをお届けします。

鎖国下での語学学習

サイマル本社のある築地(注)は、とても由緒のあるところです。築地とは「埋立地」を意味します。1657年の明暦の大火により浅草にあった本願寺が焼失したので、当時はまだ隅田川河口の海だったこの地を埋め立てて移転したのです。その後、このあたりは江戸の新開地として大名屋敷や武家屋敷が立ち並ぶ、いわば高級住宅地になりました。

さて、本社近くの公園手前に「蘭学の泉はここに」という石碑があります。これは、中津藩奥平家中屋敷だったこの地で、前野良沢らが『解体新書』の翻訳を行ったことに由来するそうです。
今回は、この前野良沢と『解体新書』の翻訳について書きたいと思います。 

前野良沢は1723年、8代将軍徳川吉宗公の時代に生まれました。長じて医学を学び、中津藩の藩医となります。彼は早くからオランダ語に強い関心を抱いていました。おそらく言葉が好きで、語学の才能のある人だったのだろうと思います。1つのことに興味を持つと、他のことを忘れて没頭する性格でもあったようです。47歳の時、オランダ語習得のために当時外国との唯一の接触点であった長崎に留学。オランダ通詞(現在の通訳)について、100日間オランダ語を学びます。この時に『解体新書』の原本である『ターヘル・アナトミア』のことを聞き、手に入れました。

オランダ語を学ぶといっても、鎖国下の時代、外国語を身につけることは不可能といっていい難事だったことでしょう。洋書の輸入も一切禁じられ、オランダ語を耳にし、目にする機会はありませんでした。サイマル・アカデミーのような養成所もあり、あらゆる教材にも恵まれた今日の学習環境とは全く違います。プロである長崎のオランダ通詞たちも、出島にあるオランダ商館のオランダ人を通し、苦労して何とか話せるようになったようですが、オランダ語の本が読める人は、極めてまれだったと言われています。江戸に戻った良沢も、持ち帰った『ターヘル・アナトミア』を見ても、ほとんどその意味を知ることはできなかったようです。

のちに良沢は、知人で小浜藩の藩医だった杉田玄白とともに、刑死者の腑分け(解剖)を見る機会がありました。2人は『ターヘル・アナトミア』の人体図描写が、死者の内臓とまったく一致しているのに驚愕し、この本を日本語に翻訳する決意をしたのです。この作業には、オランダ医学に興味を持つ若い中川順庵、のちに幕府の奥医師を務める桂川甫三の息子の甫周も加わりました。

良沢と玄白が翻訳で果たした役割

『解體新書』4巻序圖1巻 [1]――国立国会図書館デジタルコレクションより

『ターヘル・アナトミア』の翻訳は難行を極めました。4人の中で、いくらかでもオランダ語ができたのは前野良沢だけだったのです。玄白には学識こそありましたが、オランダ語はとっくにあきらめていたようです。このため、日本語への翻訳はほとんど良沢1人の手でなされたといってよいでしょう。しかし、4人の間のチームワークを保ち、わがままで人嫌いという良沢に気持ち良く翻訳の仕事をさせたのは、玄白のコーディネーターとしての手腕だったのではと思います。

1年半後、ようやく翻訳が出来上がりました。しかし、当時の厳しい情勢下で、このような翻訳本を出すことは幕府の禁令に触れる恐れがありました。このため、政治手腕のある玄白が慎重に各方面に根回しをし、何とか刊行にこぎつけます。しかし最後の段階で、良沢は翻訳者として名を連ねることを拒みました。職人肌の良沢は、翻訳の出来栄えに不満を持っていたからともいわれていますが、彼が実際にどんな心境だったかはよく分かりません。彼の孤独でやや偏屈な性格がそうさせたのではないでしょうか。このため『解体新書』は、杉田玄白訳、中川順庵校、桂川甫周閲として世に出ました。

やがて、日本医学に革命をもたらした『解体新書』が世に知られるにつれ、杉田玄白の名はこの画期的な本の訳者として、また江戸一の名医として、いやが上にも高まりました。一方の前野良沢は、その功績が世に知られることもなく、一介の藩医として貧しく不遇の余生を送り、81歳で世を去ったのです。

前野良沢と杉田玄白の関係は興味深いものがあります。良沢は、職人肌で人との付き合いをあまり好まなかったようですが、翻訳者としてはきっと質のいい仕事をしたことでしょう。一方で玄白は、人間関係を作るのがうまく、根回しなどにも長けた優れたコーディネーターだったといえるのではないでしょうか。

『解体新書』の翻訳では、良沢が主な役割を果たしましたが、玄白のマネージャーとしての役割も欠かせませんでした。この全く性格の違う二人の人物の協力が、歴史的な業績を可能にしたのではないかと思います。


主な参考文献:
『蘭学事始』杉田玄白 著/ 緒方富雄 校注(岩波書店)
『解体新書:全現代語訳』杉田玄白ほか 訳著/酒井シヅ 現代語訳(講談社学術文庫)


(注)2011年当時、サイマル本社は築地にありました(2018年に東銀座へ移転)。


※この記事は2011年2月、サイマル・インターナショナルのWeb社内報に掲載されたものを一部編集し、再掲載しています。


小松達也さん
小松達也(こまつたつや)

東京外国語大学卒。1960年より日本生産性本部駐米通訳員を経て、1965年まで米国国務省言語課勤務。帰国後、サイマル・インターナショナルの設立に携わり、以後、社長、顧問を務める。日本の同時通訳者の草分けとして、首脳会議(サミット)、APECなど数多くの国際会議で活躍。サイマル・アカデミーを設立し、後進の育成にも注力した。サイマル関係者の間ではTKの愛称で親しまれている。

 

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