ダライ・ラマ師を通訳する【小松達也アーカイブス 第4章】

日本を代表する同時通訳者で、サイマル・インターナショナル創業者のおひとりでもある小松達也さんによる通訳エッセイ。今回はチベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世のイベント通訳での忘れられない経験をご紹介します。

ダライ・ラマ師の通訳における忘れられない経験

通訳者にとって大切な心得

通訳という仕事は、言葉と意味との相克であるとともに、言葉の背後にある文化の違いの新たな認識でもあります。通訳の仕事をするといつもこのことに気づかされますが、今日はそのような点からも特に忘れられない経験についてお話ししたいと思います。それは、ダライ・ラマ師の通訳をさせていただいた時のことです。

ダライ・ラマ法王14世はみなさんもご存じのようにチベット仏教の最高指導者ですが、1959年のインドへの亡命以来、世界各地で愛と非暴力を説き多くの人に感銘を与えてきました。そのことが認められて1989年にはノーベル平和賞を受賞しています。

ダライ・ラマ師のイベントは両国の国技館で開かれました。生命科学者、文明哲学者、環境問題専門家など4名の日本人パネリストの問題提起にダライ・ラマ師が答えるという企画でしたが、もちろん師の話が中心です。いつもは相撲の本場所が行われる国技館は巨大な構築物で、ドーム状の高い天井が特徴です。演壇にはダライ・ラマ師と司会者、パネリストが座り、私の席は師の1mくらい後ろに設けられていました。「3尺下がって師の影を踏まず」です。よく聞こえるかどうかという不安が胸をよぎりました。前には3,000人から5,000人の聴衆がいます。

司会者とパネリストの発言に続き、ダライ・ラマ師が話し始めました。ところが、巨大な天井に「わーん、わーん」とこだまして、聞き取れない部分があります。しかし通訳者としては、聴衆が納得するような通訳をしなければならない。「聞き取れませんでした」では済まないのです。幸い別の日に、外国特派員協会(FCCJ)で彼の話を聞いていましたし、ダライ・ラマ師のホームページで今までの主な発言をくまなく確認していましたので、彼が話すであろうことは大体想像できました。その知識を、時々聞き取れない部分に補完して、通訳につなげることができました。

ダライ・ラマ師は、彼の置かれた厳しい環境にもかかわらず、明るくてユーモアに富んだ人です。コーヒーブレイクの時、「聞き取りにくいから、あなたの隣に席を移してもいいか」と言うと、「いいとも」とすぐ応じてくれました。法衣から露出した師の日焼けした右肩が、私のすぐ目の前にありました。「私に向かって直接話して下さい」と頼むと、「わかった。これでよく分かるかい。あっはっは」と明るく笑うのです。おかげでその後はとてもやりやすくなりました。通訳では、話し手の言うことが色々な理由でよく聞こえないということがあります。その時は話し手の人柄、立場や考えなどをよく知っていることが必要です。そうすれば、音声が十分聞き取れなくても、何とか意味を掴んで通訳することができます。これは、通訳者にとって大切な心得だと思います。この時の私の通訳は典型的なこのケースでした。

ダライ・ラマ師のメッセージ

師の話は、誠実さと真心に裏打ちされた素晴らしいもので、聴衆に十分感銘を与えたと思います。講演の後、聴衆は立ち上がって大きな拍手を送りました。その後、師はパネリストと私にチベットの白いスカーフをお土産としてくれ、直接首にかけてくれました。そして「スカーフを差し上げるのはインドの風習で、このスカーフは中国製だ。だからこれはインド、中国、チベットの友好のシンボルだ」と付け加えました。彼の人柄に触れ、素晴らしい話を聞きお土産までいただいて、壇上での苦しみも吹っ飛んでしまいました。

ダライ・ラマ師の根本的なメッセージは、「私たちは物質的価値から、人間としての愛(compassion)と温かい心(warm-heartedness)に重点を移さなければならない」というものです。そして師は、仏教徒でありながら、そのためには「宗教は必ずしも必要ない。人々の意識と教育が大切だ」と説きます。
これは世界のすべての人に受け入れられる人間的な教えなのではないでしょうか。

 

 
※この記事は2010年1月、サイマル・インターナショナルのWeb社内報に掲載されたものを一部編集し、再掲載しています。

小松達也さん
小松達也(こまつたつや)

東京外国語大学卒。1960年より日本生産性本部駐米通訳員を経て、1965年まで米国国務省言語課勤務。帰国後、サイマル・インターナショナルの設立に携わり、以後、社長、顧問を務める。日本の同時通訳者の草分けとして、首脳会議(サミット)、APECなど数多くの国際会議で活躍。サイマル・アカデミーを設立し、後進の育成にも注力した。サイマル関係者の間ではTKの愛称で親しまれている。

 

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