忘れ得ぬネルソン・マンデラ元大統領【小松達也アーカイブス 第2章】

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連載「アーカイブ・シリーズ」では、日本の同時通訳者の草分けでサイマル・インターナショナル創設者のおひとりでもある小松達也さんのエッセイを特集します。50年間にわたる現役通訳者時代のエピソード、プロ養成者の視点から見た通訳者についてなど、第一線を走り続けた小松さんならではの思いやことばをお届けします。

ネルソン・マンデラ元大統領のエピソード

肩書きでも業績でもなく、人間として偉大な人物

2010年にFIFAワールドカップ、2015年にはラグビーワールドカップが南アフリカで開催されました。南アフリカといえば、比較的最近まで人種差別と暴力で世界に知られていました。その国で国際会議が開かれても、出張した通訳者の人たちは、夜はホテルから外に出ることはできなかったと聞いています。それがこれだけ大きな世界大会が開かれるまでに安定したのは、ネルソン・マンデラ元大統領のおかげだといっていいと思います。

私のように長いこと通訳の仕事をしていると、いろんな素晴らしい人に会うことができます。各国の大統領や首相、大企業のCEO、有名な作家やスポーツ選手、革命家もいます。みなすべて「偉い」人です。しかし肩書きや業績を離れて、人間として本当に偉大な人だなと思う人は多くはありません。そのような稀な人の一人がマンデラ元大統領です。マンデラさんはこれまで3度来日していますが、私は幸いにしてその中で2度、彼の通訳をすることができました。

記者会見での忘れられない出来事

1990年に最初に来日した時は、彼はまだアフリカ民族会議(African National Congress ― ANC)の副議長でした。彼が収容所から出所したのはその年の2月ですから、来日した時は26年に及ぶ収容所生活から自由を得てまだ間もない頃でした。まず政府の賓客として国会で演説しました。この時、私は同時通訳しました。この時の演説のテープは今でもサイマル・アカデミーにあります。

翌日、日本記者クラブで記者会見がありました。貴賓室で待っていると、予定の時間より少し遅れてマンデラさんが入ってきました。会見の時間が迫っていましたので、彼が席に座るとすぐ「今日はどういうお話をされるのですか。聞かせていただけるとありがたいのですが」と切り出しました。そうするとマンデラさんは「はたしてここに着けるかどうかどきどきしていたので、何を話すかはまだ考えていない」といって皆を笑わせました。非常ににこやかで穏やかな印象でした。記者会見の質疑応答の時に、記者から南アフリカでの人種統合があまり進んでいないのではないかという質問を受けると、穏やかな表情がさっと闘士らしい厳しい表情に変わり、情熱をこめて答えられたことを覚えています。

「ネルソン・マンデラ」という人生

彼の偉さを一言でいえば「寛容」だと思います。前途ある弁護士として活動しながら、人種差別廃止と祖国統一のためにANCの幹部として激しい弾圧の中、地下運動にも従事していました。1958年には若くて美しいウィニーと結婚しますが、1964年に白人政府によって国家反逆罪として終身刑の判決を受けます。以後、1990年まで26年間ロベン・アイランドの収容所暮らしを余儀なくされるのです。収容所の中からも国内外に人種差別撤廃を訴え続け、世界世論の圧力の高まりによって、彼は1990年に釈放されます。それまでの間、自国の政府からあらゆる迫害を受け、仲間からの裏切りも経験しました。しかし出所した後、彼はそうしたあらゆる人を許し、協力して働くことを呼びかけたのです。彼の伝記を読んでいて、マンデラさんの人の良さといってもいい徹底した寛容さには驚かされました。世界中の人から尊敬を受けるのも当然だと思いました。

1995年は大統領として初めての来日でした。私が通訳をしたのは経団連など経済3団体共同主催の昼食会でのスピーチでした。相変わらず穏やかで、終始微笑みを絶やしませんでした。スピーチが終わってから、彼の自伝 『Long Walk to Freedom』 (Little, Brown and Company) にサインをしてもらいました。本の表紙を開けると、「To Mr. Tatsuya Komatsu; Compliments and best wishes, 4・7・95 」と書いてその下に N.Mandelaというサインがあります。

この本は私の宝です。  


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※この記事は2010年8月、サイマル・インターナショナルのWeb社内報に掲載されたものです。

小松達也さん
小松達也(こまつたつや)

東京外国語大学卒。1960年より日本生産性本部駐米通訳員を経て、1965年まで米国国務省言語課勤務。帰国後、サイマル・インターナショナルの設立に携わり、以後、社長、顧問を務める。日本の同時通訳者の草分けとして、首脳会議(サミット)、APECなど数多くの国際会議で活躍。サイマル・アカデミーを設立し、後進の育成にも注力した。サイマル関係者の間ではTKの愛称で親しまれている。

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