AI時代を生き抜くための翻訳スキル ~書き手の目線で文章を紡ぐ~

AI隆盛の今日、産業翻訳も激動の時代を迎えています。「このクオリティならAI翻訳で十分」とならないために、人間の翻訳者だからこそできることを大切にしてほしい――。サイマル翻訳者として活躍し、訳書も数多く手掛ける斎藤栄一郎さんからの叱咤激励です。

書き手のポリシーに寄り添う

与えられた原文を日本語らしく翻訳する表現上のコツについては、優れた参考書がたくさんあり、ここで細かいテクニックには触れません。自然な翻訳にならない理由はさまざまですが、今回は、翻訳するうえでとりわけ重要であるにもかかわらず、あまり意識されていないことを1つだけ取り上げます。

それは、「原文の書き手が、意識的か無意識かはともかく、何らかの戦略なり方針なりを持って文章を書いている」ということです。何を今さらと思われるかもしれませんが、では翻訳者がこの大原則を完全に意識して作業しているかというと、どうでしょうか。不自然な翻訳のかなりの部分は、ここを押さえて訳していない可能性があります。

書き手の戦略や方針は、本人に聞くのが間違いないですが、それは現実的ではないでしょう。それでもまだ手がかりはあります。その1つが文章構成です。文章はいくつかの段落でできています。テーマ導入の段落、意見表明の段落、例示の段落、言い換えの段落、反論の段落、結論の段落など、文章全体の中で段落ごとに一定の役割があります。ある段落の文を訳している時は、その段落の役割に沿った訳文になっている必要があります。段落に与えられた役割にそぐわない訳文は、単文の訳として間違っていなくても、全体を読むと不自然に映ります。

次に、1つの段落の中にも小さな構成があります。段落を構成する文それぞれに、導入や言い換え、まとめなどの役割があります。例えば、「深刻な労働力不足が懸念される日本。」という文は、書き出しなどで効果的に使われることがあります。しかし、段落の終わりに置くと違和感があります。つまり、段落内の文の位置には意味や役割があり、同じ訳文であっても、その位置によって、自然にも不自然にもなるのです。翻訳表現テクニック集のような参考書は上手に使うと効果がありますが、段落の役割や段落内の文の位置を把握したうえでテクニックを使わないと逆効果になります。

ツール・AI利用には責任がともなう

ITの進歩にともなって、いわゆる翻訳支援(CAT)ツールがいくつも登場していて利便性が上がっているものの、上に挙げた非常に重要なことがますます見えにくくなっているようにも思えます。全体の流れの中で今自分がどのような役割の段落の中にいて、その段落の中のどの位置の文を訳していて、その前後はどうなっているのか。これがわかりにくくなるツールで訳文を作っていくと、思考の流れ、ロジックの展開が滑らかでなく、全体として不自然な訳になりがちなので、利用者にそれを克服する努力が求められます(ツールが悪いのではなく、使い方の問題です)。

AIも翻訳分野で利用が広がっています。ただし、AIにも苦手な部分はあります。先に述べたとおり、文章の書き手は、文章構成という〝ツール〟を駆使し、「ここで挑発的な問題提起をしよう」とか「この辺りで一旦、反対派の見方も入れておこう」といったふうに、各段落に役割を与え、さらに段落内の文の位置に応じて表現上の効果をつけようと計算して(あるいは本能的に)書いています。ところが、現行のAI翻訳は、書き手がどういう効果を出すために、どのような文章構成を駆使しているのかを汲み取り、書き手の思いに共感して、訳文を作り出しているわけではありません。たとえ単文レベルで自然な表現が作られたとしても、その一文一文の表現の「自然さ」と、文章全体の論理展開や文脈の「自然さ」は別問題です。前者の自然さばかりに目を奪われると、後者の不自然さに気づきにくくなるので注意が必要です。

人間による翻訳の強みは自然な訳文を作成できることと思うかもしれませんが、人間がやっても不自然な訳はいくらでもあります。AIだろうが、人間だろうが、書き手の戦略や段落の役割などを把握しきれないままに訳した結果、全体として不自然な訳(や不自然な訳語選択)になってしまうケースは多々あります。読者が翻訳された文章全体を読んでも、何を訴えているのかピンボケになっている違和感を覚えます。

AIに触れたついでにもう1つ付け足すと、AIと人間の大きな違いは、作業に対する責任です。ちょっと複雑な文になるとAIは何事もなかったかのように一部を飛ばしたり、勝手に改変したりすることもあります。最近は、Googleで検索すると、トップにAIの答えを表示するようになっていますが、よく見るととんでもない嘘が堂々と書かれていることもあります。AIが出す結果については、たとえ有償サービスであろうとも、利用者が責任を負えということです。その意味では、AIに限らず、ツールを使うことによる弊害は、利用者が克服しなければなりません。

人間の強みを大切に

書き手が文章構成に込めた狙いを汲み取り、同じ視点、同じ戦略で責任を持って訳文を紡いでいく力は、まだ人間に一日の長があると言えます。原文と和文を並べ、左右が同じかどうかを一文ずつ見ていくことも大切ですが、原文の頭から終わりまでを通じて、書き手がメッセージを伝えるうえで、どういう意図でどのような文章構成を駆使しているのかを把握することはそれ以上に重要です。そのうえで、書き手と同じスタンスで訳文を作っていくことは、人間の翻訳者が最も力を発揮しなければならない部分です。この役割を放棄するならAIで十分ということになるのではないでしょうか。

 

斎藤栄一郎さん
斎藤栄一郎(さいとうえいいちろう)

早大卒。翻訳者・ライター。主な訳書に『地球上の中華料理店をめぐる冒険』、『PATRIOT プーチンを追い詰めた男 最後の手記』(共訳)、『イーロン・マスク未来を創る男』、『1日1つ、なしとげる』(以上講談社)、『心眼 あなたは見ているようで見ていない』、『小売の未来』、『センスメイキング』、『イノセントマン ビリー・ジョエル100時間インタヴューズ』、『小売再生』(以上プレジデント社)、『データ資本主義』(NTT出版)など。公式サイト:www.e-saito.com

 

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