石原慎太郎氏の思い出【サイマル・ヒストリー】

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日本初の通訳エージェントとして創立以来、50数年。サイマルの長い歴史の中では、様々な出会いや出合いがありました。このシリーズでは、ご縁のあった人や忘れられない出来事など、宝物の数々をゆかりのサイマル・スタッフが振り返ります。第1回目は元東京都知事・石原慎太郎氏の思い出をご紹介します。

石原慎太郎氏が、去る2月1日にお亡くなりになりました。サイマルは石原氏の会談や講演など、数多く担当させていただきました。中でも専属通訳者である長井鞠子さんは、長年にわたり石原氏からご指名をいただき、石原氏の「黒子」として通訳業務を行ってきました。今回、石原氏のご功績を偲びつつ、サイマルとの思い出を振り返ってみたいと思います。

はじまりは1989年。石原氏がソニーの盛田昭夫元会長との共著『「NO」と言える日本』(光文社)を出版された翌年に遡ります。同書はアメリカにおいて一部物議を醸し、意図を正しく伝えるためにパブリシティツアーが敢行されることとなりました。その時、お声をかけていただいたのがサイマルで、担当通訳者となったのが長井さんでした。ワシントンDCでは、多くの政府要人との会見、メディアインタビューなどで通訳を務めました。そしてそれ以降30年以上もの間、石原氏は長井さんを「僕の通訳者」と呼び、通訳者が必要な時はご指名くださるようになりました。

あまたご縁をいただいた中で、個人的に特に印象深いのは2016年開催のオリンピック招致に向けた活動です。IOC(国際オリンピック委員会)へのプレゼンテーションは、可能であれば発言者本人がIOCの公用語である英語またはフランス語で行うことが好ましいとされていました。石原氏は当初「僕には優秀な通訳者がいる」と、自らが英語でスピーチされることに非常に消極的でした。しかし、リハーサル期間の後半になり、石原氏は海外から招聘されたスポーツコンサルタントからの「英語でプレゼンテーションをした方がよい」というアドバイスを受け入れ、自ら英語でスピーチされる部分を少し加えられました。「本番直前まで英語の発音から発声、ジェスチャーなど何度も何度も練習し、スピーチに臨まれた」と後から長井さんに聞きました。石原氏の並々ならぬ招致への情熱を感じ、舞台裏の片隅で感動した事は今も鮮明に覚えています。

関係者の努力は実らず、残念ながら、南米初のオリンピック開催をめざしていたブラジル・リオデジャネイロに敗れてしまいました。しかし、2011年9月、東京は再び招致に向けて動き出しました。そして、2021年、未曾有のパンデミックを乗り越え、多くの方々の努力により、私たちの記憶に残る東京オリンピック・パラリンピックが開催されたのです。そして、それら全てを見届けたかのように、石原氏は永遠の眠りにつかれました。

最後に、長井さんの著書『伝える極意』(集英社)から一部を抜粋し、紹介させていただきます。

――英語に“orator”という言葉があります。日本語にすれば「雄弁家」という意味で、もともとはラテン語で「話す人」を意味する言葉です。聞いた人が「この人なら何かしてくれるかもしれない」と思うような発言は、この“orator”が得意とするところで、聴衆を揺さぶるような煽情的な資質があります。現代の日本の政治家のなかから、わかりやすい例を挙げるとすれば、石原慎太郎です。
(中略)

通訳者として、石原慎太郎はつねに「この人は何を言うかわからない」という緊張感が伴う発言者です。ただ、20年以上のつきあいになれば、ある程度は彼の意識の流れを肌感覚で理解できるものです。逆にいえば、そういった経験の蓄積がなければ石原慎太郎のスピーチを訳すのは非常に難しいということでしょう。
(中略)

前章で「理解はできても笑えないジョークがある」と述べましたが、“orator”的要素というのも、理解よりも深い部分で聞く人の心に働きかける力のことです。そして、笑いと同じように、ある時代が持つ空気感やそれに基づく共通認識と不可分のものかもしれません。石原慎太郎も、ひとつの時代を象徴する存在といえるのではないでしょうか。――


あらためまして、感謝と共に心からご冥福をお祈り申し上げます。

 

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画像提供:長井鞠子さん

 

 

営業推進課 S.O.

 

【動画紹介】

石原氏には長井さんが登場したNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』でコメントをいただきました。下記のNHKオンデマンド(有料)で視聴できます。

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