お客さまのご要望に応える―― 翻訳方略 ――【翻訳者リレーコラム】

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〈翻訳方略〉――難しそうな言葉ですが、翻訳者であれば日々取り組んでいるはずの身近なお話です。はるか紀元前から議論され、今なお翻訳者を悩ませる〈翻訳方略〉について、翻訳者であり、サイマル・アカデミー講師としても活躍中の沢田さんが語ります。

良い翻訳とは、原文に厳密に忠実な翻訳なのか、それとも多少原文の内容をはしょってでも読みやすさを優先した翻訳か――これは、翻訳者にとって永遠の命題と言えます。強く意識することで、また違った翻訳の世界が見えてくるかもしれません。

 

「少し硬くてもいいので、忠実に訳してください」

「意訳でもいいので、分かりやすい日本語にしてください」

 お客さまからこのようなご要望をいただくことがあります。その意図はよく分かりますので、ご意向に沿った形で訳文を作ります。ですが実は、基本的に作り方を変えているわけではないのです。といってご意向を無視しているわけでもありません。なぜなのでしょうか。

翻訳論の中に「翻訳方略」という概念があります。翻訳とはどのような行為なのか、その定義に基づくとどのような訳文ができるのかという研究です。そもそも翻訳のあり方を巡っては、紀元前一世紀頃に活躍した古代ローマの政治家・文筆家のキケロ(Cicero)にまで遡り、「直訳(literal)」か「自由訳(free)」かが議論されました。近代に入ってからもシュライアーマハー(Schliermacher)をはじめ、ベルマン(Berman)、ヴェヌティ(Venuti)、ナイダ(Nida)などが、それぞれの理論を展開してきましたが、基本的に起点(ソース)言語重視(SL emphasis)または目標(ターゲット)言語重視(TL emphasis)のどちらが良いか、すなわち二項対立を論じたものでした。

1980年代になって、イギリスの研究者ニューマーク(Newmark)が8種類の翻訳方略を提唱しました。そのイメージを表したのが下の図です。


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この考え方は、起点言語重視の翻訳から目標言語重視の翻訳の間を単純に二分するのではなく、翻訳されたテクストの使用目的や対象読者を正しく想定して、その範囲で最も適切な方略を選ぶというものですから、常にどちらか一方の言語に偏るという現象が解消されることになります。私が一般的な産業翻訳に適していると考えるのは、真ん中より少し目標言語寄りの「コミュニカティブ(コミュニケーション重視)な翻訳」です。この方略を使えば、一言一句漏らさずに原著者の意図・メッセージを拾いあげ(内容に忠実)、それをコンテクストを反映した適切な(分かりやすい)日本語の文章に置き換えることになります。ですから、冒頭でご紹介した一見まったく逆に思えるお客さまのご要望のどちらにも、きちんと応えることができるのです。

少し硬い話になってしまいましたが、これを的確に言い表したセリフがあります。以前、『赤毛のアン』の翻訳者を取り上げた、NHK連続ドラマ小説『花子とアン』が放送されていました。それに登場する、ある出版社の編集長のセリフです。「 あのね、翻訳とは、原文との距離感が大事なんだ。原文に引きずられて、直訳や、不自然な日本語になってもいかんし、読みやすさを重視して、はしょり過ぎてもいかん。その制約の中の勝負なんだ

まさにその通りと思いました。私たち翻訳者はお客さまのご要望がいずれの場合であっても、同じ姿勢で真摯に原文に向き合い、お客様に満足していただけるよう、上述のセリフにある「制約」の中で日々奮闘しているのです。

 

(注)この記事は、2014年10月に「サイマル翻訳ブログ」に掲載されたものを編集したものです。 

 

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沢田陽子(さわだようこ)

英系証券会社、米系コンサルタント会社などを経てフリーランスの実務翻訳者に。サイマル・アカデミーにて実務翻訳講座を担当。英国の大学院でApplied Translation Studiesの修士号を取得。

 

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