16年目。たくさんの「利他の精神」に囲まれて【1年目の私へ】

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現在活躍している通訳者翻訳者の方々が「プロデビュー1年目」を振り返り、その頃の自分へ、手紙のようにしたためる「1年目の私へ」。第3回はドイツ語翻訳者の井口 富美子さんが登場します。井口さんは、デビューしたての自分へどのような言葉を贈るのでしょうか。

プロになろうと思ったきっかけ

1年目の私へ。プロになろうと思ったきっかけは覚えていますか。16年目の私はもう忘れてしまいました。ドイツの映画や芸術にあこがれて勉強を始めたドイツ語がおもしろくてたまらなくなり、何年もかけてお金を貯め、留学しましたよね。帰国したとき「これで食べていきたい」と強く思ったことだけははっきり覚えています。

運よくすぐに翻訳会社に就職でき、実務翻訳の世界に足を踏み入れました。残業も多く、ハードな毎日でしたが、出産して育児休暇が明け、通勤電車でベルンハルト・シュリンクの『朗読者』(松永美穂訳、新潮社)を読んでいた時、物語の世界が目の前に立ち現れるかのような文章に、いつか自分もこんな翻訳ができたらと強く思ったのが2000年の秋でした。

10年間の充実した会社員生活でしたが、子どもの小学校入学を控えて学童保育が見つからず、思い切ってフリーランスの翻訳者になりました。それが1年目、2005年です。あのときは、心の準備もほとんどなく、フリーで食べて行けるのか、とても不安でした。ただ、社内で翻訳や翻訳チェックは数多くこなしてきましたし、人の翻訳を見ることも見てもらうことも多かったので、自分の翻訳を客観的に見られるようになっていたと思います。社内の辞書やPC環境の改善にも取り組んでいたため、その知識も役に立ちました。また、優秀な翻訳者はそれほど多くないことは経験でわかっていたので、途切れなく仕事がもらえるようになるには、どのレベルをめざせばよいかという、はっきりした目標を持つこともできました。

反省点は「健康」です。めいっぱい仕事を入れて、働き過ぎだったと思います。熱があっても氷嚢を頭にくくりつけてPCにかじりつくような生活でした。やがて疲れがたまり、肩が凝り、頭痛がひどくなっていきます。病院や鍼灸院に通いましたが、今思うとあれは睡眠不足と運動不足、栄養の偏りだったのでしょう。無理は禁物。自分の身体も大事にしてね

最初の1年、最大の不安は「孤独」になることでした。会社勤めとは異なり、家族以外と話すことがない状況は未知でしたから。でも安心して。2006年から始めたTwitterでたくさん友人ができました。当時のTwitterは今とは違い、いたって平和。500人前後の翻訳者がつながっていました。翻訳の悩みや勉強の仕方、見た映画や展覧会の感想、旅行に行った、庭の手入れをした、子供が熱を出した、といった何気ない会話が、孤独を忘れさせてくれました。オフ会などを通してリアルの友人もたくさんできましたよ。

2012年、そうやって知り合った仲間と翻訳勉強会を立ち上げ、Facebookグループも作りました。翻訳者同士が教え合うという趣旨で、コロナ禍の現在も続いており、会議ツールを使ってセミナーや翻訳者同士の交流会も開催しています。ここで学んだことは、私の血となり肉となり、かけがえのない経験となっています。

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初めて勉強会を開催した場所

自分のため、人のために活動を続けて

そして、転機は2014年に訪れました。まず、日本翻訳者協会(JAT)主催の「第25回英日・日英翻訳国際会議」、IJET-25です。私は実行委員としてかかわりました(余談ですが、この時サイマルの方にお声をかけていただいて、お仕事のご縁ができたのでした)。当時NHKで朝の連続テレビ小説「花子とアン」が放送されていたこともあり、基調講演を村岡花子の孫娘で作家の村岡恵理さんにお願いしていました。その宣伝にもなるかなと、何の気なしに「花子とアン」のファン交流Facebookグループに参加したのですが、そこで奇しくも文芸翻訳の師と、志を同じくする何人かの「腹心の友」に出会ったのでした。実務翻訳とはまるで違う翻訳手法を学び、友人たちの励ましを受け、書籍翻訳の夢もかないました。

自分のため、人のために活動を続けているうち、交友関係はどんどん広がり、コロナ禍でも孤独とは無縁です。昨年の緊急事態宣言中も、Facebookでつながる友人たちと励まし合うことができ、どれほど心強かったでしょう。さらに、8月の一か月間、日本会議通訳者協会(JACI)が「日本通訳翻訳フォーラム2020」を開催しました。私も登壇しましたが、コロナによる業界の苦境、暗く重苦しい空気を明るく変えてくれた、素晴らしい企画でした(今年も2021として開催です)。私はこのとき、これこそが「利他の精神」だと思いました。

 

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あるご婦人にいただいたモッコウバラ


先日、よそさまのお庭をきれいだなと見とれていた私に、その家のご婦人が白いモッコウバラを切り取って持たせてくださいました。1年目に孤独を恐れていた私へ。16年目の私は、こうしてたくさんの「利他の精神」に囲まれ、夢を追いつつ、静かに情熱を燃やしながら毎日仕事をしています。
 

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井口富美子(いぐちふみこ)

大学卒業後は専門図書館に勤務。ドイツ留学、翻訳会社勤務を経て2005年にフリーランスの翻訳者として独立。産業翻訳の他、文芸翻訳にもたずさわる。JTF理事。訳書『デヴォリューションの虜囚』(早川書房)、『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』(共訳、左右社)、『夜ふけに読みたい動物たちのグリム童話』(監訳、平凡社)ほか。

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