英語以外の言語の翻訳事情や、仕事のエピソード、スキルアップ情報などを、翻訳者がリレー形式で紹介します。今回は、「フランス語ホンヤクの世界」です。さまざまな国や地域で話されているフランス語。それゆえ各地方独特の単語や表現が存在します。スイス出身の翻訳者ステリン・ローランさんが常に気を付けていることは何でしょうか。
フランス語の多様性
私は日本語が母語ではないので、翻訳者という職業のおかげで、常にこの言語について学ぶ機会があります。また、母語であるフランス語においても言葉の特別な使い方を再発見したり、専門的な語彙を知ったりすることもあります。
特に校正を行う際、たびたびフランス語の難題に突き当たります。そんなときは、フランス語の文法を解説するサイト、たくさんのフォーラムやブログなど、ウェブに解決を求めます。時に、ユーザーの質問や投稿は過激な議論を生みます。
このような議論で見られる熱意や熱情には、何かフランス語特有のものがあるのでしょうか。他の言語の場合は分かりませんが、文法の概念がゆるやかな日本人にとっては驚くべき現象かもしれません。これはフランス語やフランスを象徴することでしょうか。あるいは、「フランス精神」と昔呼ばれたものに由来するのでしょうか。無限に討論する習慣がそこに見えます。それはフランス人の特徴かもしれませんが、「フランス語」 の特徴ではありません。フランス語の文法はひとつですが、フランス語は「複数」あります。フランスはもちろん、ベルギーやスイス、そしてアフリカの諸国、ケベックなど、それぞれの国のフランス語に特徴が存在します。
スイス出身である私は、フランス語の多様性に関わる問題をしばしば仕事中に経験します。ドイツ語の影響も受けているスイスのフランス語と、標準のフランス語の間に違いがあることは以前から知っていましたが、日常生活のレベルでは特に問題になりませんでした。
最も有名なのは 70 から 99 までの数え方だと思います。スイスだけではなく、おおかた のフランス語圏の国も、50 や 60 と同じロジックで発音します(cinquante, soixante, septante~)。しかし、フランスでは、70 は「60 +10」(soixante-dix)、95 は「4×20+ 15」(quatre-vingt-quinze)になります。スイス人やベルギー人など、そしておそらくフランス語を習う皆にとっても、「数を計算する」はまさかの不条理なのです!
特有のなまりのあるケベックのフランス語はすぐ分かりますが、私自身は、必要なら「フランス人のように」フランス語を書いたり、話したりしているという自信がありました。
ところが、日本に住んでから、そして仕事を通して、長い間気づかずに「間違った」フランス語を使っていたことがわかりました。比較的最近の例です。「une amie」(女性の友達)の発音は「アミー」ではなく、「アミ」だということ。同様に、「demie」(半分)や「finie」(終わった)のような女性形の形容詞や、過去分詞は男性形と同じ発音を使って、最後の母音を長く発音する必要がありません。
その発見のきっかけは、標準のフランス語を習った妻でした。妻がフランス語の発音をまだ習得していないのだと私は主張しましたが、結局は自分が「間違っている」と認めるしかありませんでした。今までその発音の特徴に気づかなかったのが不思議ですが、このようなことは、「helvétisme」(ヘルヴェティズム=スイスのフランス語に特有の語法)といいます。
日常の生活において、ヘルヴェティズムまみれのフランス語を話しても、全く問題ないと思います。逆に、自分のアイデンティティーにも関わる、一種のプライドも感じています。しかし仕事の場面で、ヘルヴェティズムは禁止です。スペルチェッカーをかける、あるいはウェブで何かを確認するときに、使おうとした単語がヘルヴェティズムだとわかることがあります。
最近の例は、「 place de parc 」(駐車場)です。Google で検索して、その検索結果のURL が主に「.ch」(スイスのラテン語での正式名称は Confoederatio Helvetica)で終わることに気づき、驚きました。辞書を開くと、やはりスイスの言葉でした。(標準語で place de stationnement といいます)
ですが、最も驚いたのは、「agender」という動詞です。「必要に応じて、会議を来週の金曜に決める」のような文章の翻訳に、ぴったりの動詞です。会議などの「日付を決める」は「アジェンダに書く」という意味で、スイスでよく見かける「agender」はぴったりの訳語だと思いました。ところが、方言の香りがしないこの単語も見事、ヘルヴェティズムだと、スペルチェッカーのおかげで分かりました。
注意しないと自然に使ってしまうヘルヴェティズムは色々あります。例えば、スイスでは昼ご飯は「dîner」、夕ご飯は「souper」ですが、フランスでは「déjeuner」と「dîner」ということは、比較的よく知られています(スイスでは、朝ご飯として「petit-déjeuner」と「déjeuner」両方使えます)。標準語の「croiser les doigts」(指を組む=幸運を祈る)は、スイスのフランス語ではドイツ語の影響もうけて「tenir les pouces」(親指を握りしめる)になるのですから、事態はさらに複雑です。
他の「イズム」にも注意
私はカナダのフランス語を話せませんが、インターネットの使用によって最近は仕事において「ケベックイズム」のリスクを感じています。英語の国にあるケベック州は、翻訳ツールに関して先端的であり、参考になる使いやすいサイトも多くあります。ただし、このようなサイトと翻訳のデータベースは、ケベックの単語も含んでいて、注意が必要です。というのは、ケベックには英語から影響を受けた単語があり、彼らの言語を守るためか、それらを優先的に訳語として表示する可能性があるからです。「magasiner」(ショッピングする)や「téléphone intelligent」(スマートフォン)の有名な例えのように、ケベックのフランス語のほうが直訳に近い訳語を使っています。
しかし、こうした例ほど、日常的に使われていない用語の場合は、その由来を調べ、妥当な訳語なのか確認しなければなりません。
このような「~イズム」はフランス出身ではないフランス語翻訳者や、安易に翻訳ツールに頼った翻訳にとっては、罠となる可能性があります。他方で、この問題を意識することは、翻訳者として決して悪いことではありません。純粋なフランス人の翻訳者より、フランスでしか通じない言葉を避けることができるからです。例えば、「小学校 1 年生」が「élève de CM1」と翻訳されたものを修正したことがあります。フランス人にはすぐ分かりますが、教育のシステムが違うスイス人に通じません。このような場合は、長くなりますが「élève en premier année d’école primaire」としたほうが、より安全な翻訳になると思います。翻訳が、フランスのフランス人だけに向けたものだとは限りません。教育のレベルに加えて、資格やサービスの名前などについても、フランス人に親しい言葉あるいは略語より、直訳を使ったほうが妥当です。
「フランス語」は必ずしも「フランスのフランス語」と一致しない。また、「フランスのフランス語」が、フランス語圏すべてにとってのフランス語でもない。翻訳するとき、いつもこのことを念頭に置いています。
ステリン・ローラン
スイス出身。ローザンヌ大学文学部大学院卒業。京都大学と大阪大学での留学を経て、日仏・英仏翻訳のフリーランス翻訳者。文化一般はもちろん、観光、農業、環境、国際援助などの分野も得意とする。
【あわせて読みたい】「フランス語ツウヤクの世界」
として働くなら
サイマルへ
サイマル・グループでは、世界との交流を共に支える通訳者・翻訳者を募集しています。あなたのキャリア設計や就業スタイルにあった働き方で、充実したサポート体制のもと、さらなる可能性を広げてみませんか。