英語以外の言語の翻訳事情や、仕事のエピソード、スキルアップ情報などを、翻訳者がリレー形式で紹介します。今回は「フランス語ホンヤクの世界」です。「翻訳とは異なるメーカーのブロックを使って同じお城を再建すること」。どのような工程を経て美しく堅固なお城を築いていくのでしょうか?
メーカーの異なるブロック
今から十数年前、こんなことがありました。フランス滞在中に使用していた運転免許証を、帰国後再び日本の普通免許証に戻したときのことです。窓口で「手数料をお支払いいただければ小型二輪免許を付けられますが、どうなさいますか?」と尋ねられました。フランスの運転免許を経由することで、当初日本の普通免許にはなかった小型二輪の運転許可が、講習を受けてもいないのに自動的に付与されるというのです。
この奇妙な出来事は「普通免許」という言葉の守備範囲が日仏間で厳密に一致していないことに起因するものですが、これはまさに翻訳で常々直面する悩ましい問題、すなわち二つの異なる言語や社会の間に存在するズレと実によく似ています。その意味で翻訳という作業は、玩具メーカーA社のブロックで作られた城(ソース言語)を、各ピースのサイズや形状が異なるB社のブロック(ターゲット言語)で再現しようと試みるようなものかもしれません。
再現度を高める
B社のブロックセットを使って、ひとまずA社のオリジナル(原文)と似た城(下訳)をこしらえました。しかし、よく見るとこちらは石垣の高さが足りず、屋根もいびつで全体的に見栄えが悪いようです。
夫婦で翻訳業を営むわが家では合計5段階からなる作業工程(aが下訳→bが校正→aがbの校正内容を見直し→a&bで協議→a、bが各自最終チェック)を経て最終稿を仕上げていますが、可能な限りオリジナルに忠実な城に近づけていくため、こうした一連の作業を通じて当初の下訳に大幅な修正を加えます。
原文を正しく理解し正確かつ読みやすい訳語を選定することは見直しを重ねる中での最低限のミッションですが、城を見栄えよく仕上げるためにはもう一歩踏み込む必要があるように思われます。
関連情報の調査
「résidences autonomie」という言葉に遭遇したとしましょう。直訳すると「自立住宅」ですが、仏語をただ日本語に移し替えただけでは正確な意味が伝わらない恐れがありそうです。
そこでフランス語の関連法や定義を調査します。すると「résidences autonomieは、基本的に自立した生活を送れる高齢者の受入れを目的に設計された施設注1」という説明に辿り着きました。
次に日本の制度上これに近いものを探すと「基本的には自立(介護認定なし)あるいは要支援状態の人のみが入居できる施設注2」として「健康型(自立型)有料老人ホーム」という呼称が見つかりました。両者の定義はほぼ同一ですのでこれを訳語として採用すれば「自立住宅」よりは明快な訳文が作れそうです。
ただし先に述べた免許の例同様、日仏両国における高齢者向け住宅の定義に何らかのズレがある可能性を考慮すると、この用語をそのまま訳語として採用するのは少々躊躇われるところ。そこで「résidences autonomieは基本的に公的機関により運営される」という仏政府の関連ホームページ上の情報を参考に「公営健康型老人ホーム」と訳出し、これに上記説明に基づくコメントを添える、このあたりが落としどころになるように思います。高さの足りなかった石垣の見栄えがこれで多少なりとも改善されたのではないでしょうか。
高台から見下ろす
もうひとつ城の外観を整えていく上で重要なのが、ロジックに無理のない自然な訳文を作るための修正です。見直しの段階では、正しく訳出しているにもかかわらずロジックに違和感のある訳文に遭遇することがよくあります。
例えば「Je suis allé à l’école hier.」というごく簡単な文章。「私は昨日学校に行った」は正しい訳文ですが、前後の文脈によっては「昨日は学校に行った(今日は行っていない)」や「昨日学校には行った(塾には行っていない)」とすることで論旨がクリアになるケースがあります。文脈の流れを整える方法はこれに限りませんが、トピックマーカーの働きをする助詞「は」の位置ひとつで訳文の流れが明確になることもあれば、逆に前後のつながりが不自然な文章になったりもするわけです。
こうした修正の地味ながら有効なステップとして、原文を参照せず決定稿前の訳文のみを最初から最後まで一気に読み下す、という作業が挙げられるかもしれません。チェックにあたっては原文と突き合わせながら訳文を逐一確認していくことで訳抜けやタイプミスなどを発見できますが、こうした作業は虫眼鏡を使って訳文上を歩くようなもので、大きな論旨の矛盾に気付かぬまま素通りしてしまうことも多いのです。最終工程として訳文だけを通して読む作業はいわば高台から全体の景色を見下ろすことに近く、1文ずつ虫眼鏡を通して見ていたときには気付かなかった大きなミスに、このとき初めて気付くことも珍しくありません。城の屋根に開いた穴は上から見ないとわからないのです。
いかにしてオリジナルの城を再建するか――長年にわたる経験を経た今でも、労少なくして大きな成果を得られるような魔法のノウハウを見つけるには至っていません。関連情報の徹底的な調査、そして角度を変えた見直しを何度も地道に重ねることがその唯一の方法だと感じています。
(注2)https://www.sagasix.jp/knowledge/guide/kenkougata/
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