第10回 現場と緊急避難(前編)【「訳し下ろし」の同時通訳術】

現役の会議通訳者・池内尚郎さんが、同時通訳の実践的技法・術(わざ)を紹介していく連載コラムです。第10回のテーマは「現場と緊急避難」です。スピーカーの発言が聞こえない時や、訳語が出てこない場合の対処法についてのお話です。

対処法:前編

“breathe down someone’s neck”という慣用句がある。「(人に)しつこくつきまとう、まとわりつく」というほどの意味だ。あまりいい意味で用いられる表現ではない。しかし、通訳業に身を置くようになって、あらためてこの言葉に出会ったとき、ひとつの映像が鮮やかに浮かんだ。鼻息がスピーカーの首筋にかかるほどまで背後に詰め寄る、鬼気迫る通訳者の姿。もちろん身体的距離のことではない。スピーカーが好き勝手に喋っても、通訳者はオリジナルの言葉の流れにピタッと身を寄せて話者に付かず離れず訳出を続ける———そういう姿だ。一言でいえば、同時通訳の醍醐味は、こうした話者との不離一体感をどのようにつくり、それをどれだけ長く続けられるかにある。

はかない不離一体感

この不離一体感は、ある意味はかない。通訳者は、いとも簡単に話者から突き放されてしまう。原因はふたつある。

ひとつは、通訳者がスピーカーの発した単語を聞き取れない、または文章の意味を理解できない場合だ。つまり、インプットに関わる問題。もうひとつは、話者の言葉は理解しても、単語や表現がすぐに出てこない場合。こちらはアウトプットの問題になる。

だから、不離一体感を保つためには、このインプットとアウトプット双方で障害を取り除けばいいということになる。しかし「言うは易く行うは難し(It is easier said than done.)」。どれだけ、同時通訳に熟達しても、現場では話者から振り落とされる場面を避けることはできない。そんなとき、どうすればいいのか。今回は、話者の言ったことがわからない、訳語が出てこない場合の「緊急避難 (quick fix)」がテーマだ。

受動的安全と能動的安全

急に話が飛んで恐縮だが、自動車を例にとって説明したい。自動車の安全機能には受動的安全(passive safety)と能動的安全(active safety)の二種類ある。受動的安全とは、事故が起きたときに乗員に与えるダメージを最小限に抑えることをいう。シートベルトやエアバッグがその代表的装置だ。一方、能動的安全は予防安全ともいい、その言葉が表すように事故を未然に防ぐことを指す。いま流行りの自動運転でいえば、車線逸脱防止や衝突回避システムなどの装置がこれにあたる。

少々強引かもしれないが、同時通訳にも同じように二種類の装置(緊急避難)があると思う。ひとつは、通訳でつまずいたときに、その損害をできるだけ小さくする方法だ。被害を限定するやり方なので、私はこれをlimitersと呼んでいる。一方、同時通訳をしている最中につまずきが起こらないように、あらかじめ損害回避の方策を用意するのが、もうひとつの方法。こちらは、通訳者の事故回避能力を高めるという意味で、boostersと名付けている。

では、このlimitersとboostersにはどんなものがあるのか、みていきたい。その前にお断りしておくが、いまから紹介する方法は、先ほども言ったように緊急避難だ。目の覚めるようなファインプレーではない。その場を取り繕う「弥縫策(びほうさく)」である。そのことをくれぐれも忘れないでいただきたい。

被害を限定する(Limiters)

まずはlimitersから。同時通訳で「事故」が起きるのは、話者の言葉がわからない場合か、わかっても訳語が出てこない場合である。こんなとき一番大事なのは、狼狽しないことだ。聞き取れなかったもの、意味が理解できないものは、あがいても解は出ない。まずは、その冷徹な現実を静かに受け止めることである。行動を起こすのはそのあとだ。そして、その上で起こすべき行動の第一は、わからなかった言葉の周辺情報を訳してその場をつないでいくことである。

第二に、その周辺情報も曖昧であれば、とりあえず無視する。くれぐれも、当てずっぽうの訳を創作するような愚を犯してはならない。ところで「無視する」というと任務放棄のように聞こえるかもしれないが、私はこのやり方を、負け惜しみも込めて「建設的無視(constructive neglect)」と命名した。なぜ「建設的」か。同時通訳でなんとしても死守しなければならないのは、全面崩壊(クラッシュ)しないことだ。それを最優先して目先の失敗は目をつむる———だから「建設的無視」である。


もうひとつの「事故」例は、アウトプットの場面だ。意味はわかっていても、すぐに訳語が出てこない場合である。これは、どんなに手慣れた通訳者にも起きる。そんなとき、どんな被害限定策があるのか。このような局面で大事なのは、すぐに出てこない単語に未練を持たないことである。切羽詰まった状況下で言葉を捻り出そうと焦れば焦るほど、頭の中は真っ白になり思考回路は完全に寸詰まりになる。そんなときは、自分の頭の中にある単語リストからsecond bestやthird bestを使ってみる。訳語を絞り出そうと前のめりにならず、その単語を迂回して全体的意味を捉えようとすると、元の単語に近い意味の訳語がふと出てきたりする。ただ、これはラッキーな場合。何も思いつかないこともある。その場合は、ここでも「建設的無視」の出番だ。ただし、出てこなかった単語は覚えておくか、メモしておく必要がある。こうしておけば、また同じ単語が出てきたときに、名誉挽回を果たすことができる。それでこそ「建設的無視」と胸を張れるのではないか。

池内尚郎(いけうちひさお)

サイマル・インターナショナル専属通訳者。上智大学外国語学部ロシア語学科で学ぶ。国際交流や国際政策に関わる仕事の後、サイマル・アカデミーで学び通訳者に。政治・経済・文化・科学技術など幅広い分野で活躍。同校通訳者養成コース会議通訳クラスで後進の指導にあたる。

【続きはこちらから】対処法:後編

 

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