英語以外の言語の翻訳事情や、仕事のエピソード、スキルアップ情報などを、翻訳者がリレー形式で紹介します。今回は「中国語ホンヤクの世界」です。同じ漢字圏である中国語と日本語だからこそおこる「漢字の言語干渉」について、ベテラン翻訳者・鈴木玲子さんが豊富な実例とともにご説明します。
漢字による言語干渉
日本語の文字は5世紀から6世紀にかけて中国から伝来した漢字に始まり、ひらがなとカタカナはその後漢字を変形させて作られていったようです。長い歴史の中で、漢字表現はすっかり日本語表現の骨組みとなりつつも、日本人はもはやそれを意識することなく漢字を織り交ぜながらの日常的な意思疎通をはかってきました。
中国語通訳・翻訳の現場でも、私たち訳者は漢字の恩恵に与る一方、それによる言語干渉に悩まされることも少なくなく、常に疑いの心を持って漢字表現と付き合っています。
サザンカと“山茶花”
宴席の会話によく植物の話題が出てきます。晩秋の頃に赤や白い花をつけるサザンカを日本でよく見かけます。サザンカの漢字表記は「山茶花」なので、中国の方に紹介するときはそのまま“山茶花”(シャン・チャー・ホァ)と訳してしまうことがほとんどです。ところが、それは間違いです。
小学館の植物図鑑によると、サザンカはツバキと同じツバキ科で、日本で改良された花木であり、極めて似ていますが、違う種であります。サザンカは10月から12月に咲き、ツバキの開花時期は1月から4月ごろです。そして、一番顕著な違いはサザンカが散る時は、花びらが落ちますが、ツバキは花首から落ちます。
ツバキを漢字で書くと「椿」となり、これこそ中国語で言う“山茶花”なのです。なので、中国の方がもし“山茶花”と言って話題にしていたら、ほとんどの場合日本の「椿」を指します。
それでは、日本のサザンカは中国語で何と言いましょうか。それは“茶梅花”と言います。花の咲く季節が分かれば、たとえ中国語の訳語を度忘れしたとしても、翻訳であれ通訳であれ、正確な訳語までたどり着かなくても誤訳のリスクはかなり避けられるのではないでしょうか。
脚気と“脚気病”
中国の友人がある薬の販売を担っており、宣伝文がSNSを通じて拡散しています。それは一種の塗り薬で「脚気」という名前の病気を治すものです。日本人も「脚気」によくかかっているでしょうと聞かれ、一瞬戸惑いました。
ちょうどその頃、福岡伸一先生の『動的平衡』(注1)を読んでいる最中で、日露戦争で三万人近い日本の兵士が脚気で倒れたそうで、それは当初森鴎外が軍医指揮を務める一派が考えていた病原菌による感染症ではなく、ビタミンB1の欠乏によって起こる病気だということを知ったばかりです。日本で言う「脚気」という病気は塗り薬で治すのではなく、栄養バランスに注意してビタミンB1が豊富に含まれる玄米や豚肉、大豆などを取るように心がけることなのです。
それでは、中国語の“脚気”は何という病気でしょうか。なんと、日本の「水虫」に当たります。確かに、水虫は病原菌による伝染病であり、治療薬には塗り薬が使われます。
一方で、栄養不足による「脚気」という病気は、中国語で“脚气病”(ジャオー・チー・ビン)と言い、漢字一文字があるかないかで意味に雲泥の差が生じる絶好例です。また、通訳は翻訳と違って、音によって意味を捉えるので、誤解を最大限に避けるためにはさらに「ビタミンB1欠乏症」と付け加えて中国語に訳すことが必要と思われます。
以上見てきたように、同じ漢字圏であるがゆえに、日本語と中国語の通訳・翻訳においては多くの落とし穴があり、細心の注意を払って見極めることが求められます。翻訳者による翻訳文をチェックする際に、もっぱら語彙と語彙の対応関係に目が向けられがちですが、これは大変危険なやり方で、往々にして誤訳や意味の通じない中国語文章になってしまいます。
例えば、連結決算の中国語は“合并决算”であって、“连结”ではありません。会計分野の専門用語としてはすでに定着しており、日本語の漢字語をそのまま適用するのは不適切です。また、日本語の「異次元改革」はそのまま“异次元”に訳すのではなく、“超常规”で対応したいですね。「異次元」は確かに漢字語ではありますが「通常とは全く異なる考え方、やり方」という意味をきちんと中国語で表現する必要があり、“异次元”はおしゃれに聞こえても、意味は不明瞭です。
さらにいくつかの紛らわしい例を挙げてみましょう。日本語の「敷衍」という言葉も、中国語とは全く違う意味になっています。日本語では「意味のわかりにくい部分を詳しく、わかりやすく説明する」ということですが、中国語は「いいかげんにあしらう」「お茶を濁す」などの意で用いられます。
中国にある日系企業に「検討室」という標識を何度も見かけたことがあり、それは中国語で書かれているので、大きな違和感を覚えました。「検討」は中国語で「自己反省」の意味で「検討室」そのままにしていたら、毎日社員がそこで反省することに徹しているような誤解を招きかねません。
日系企業の内部用語として使われることについてはなんら問題ありませんが、外部の人間も出入りしているので、あまりプラスのイメージにはつながりません。“研讨室”(研究、議論する場)のように、一文字変えただけで、すこぶる積極的な企業風土に変身します。
もう一つとても簡単そうに思える漢字で書かれた名詞として、「高等学校」があります。通訳の現場で、そのまま中国語の“高等学校”に訳されることをよく耳にします。そうなれば、大学の意味になってしまいます。日本語の「高等学校」は高校を指しており、中国語では“高中”に訳さなければなりません。
長々と中国語・日本語の世界における漢字による言語干渉の問題を実例を挙げながら述べてきました。翻訳と通訳作業を問わず、訳すことは意味を伝えることであり、単語の置き換えではありません。この大原則に立って、まず漢字語彙、漢字表現を注意深く検討し、日常的にそれらの言葉を単語帳に整理して対訳を作っておくことが不可欠です。
(注1)『新版 動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』(小学館新書)
北京生まれ、筑波大学国際関係学部卒業。サイマル・アカデミー日本語中国語同時通訳コース修了後、フリーランスの会議通訳者・翻訳者として日本と中国を行き来しながら活動。
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