文章の意味を探して――書き手の思いを知ること【韓国語ホンヤクの世界】

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英語以外の言語の翻訳事情や、仕事のエピソード、スキルアップ情報などを、翻訳者がリレー形式で紹介します。今回は、韓国語ホンヤクの世界。言葉の裏に隠された2国間の社会文化の違いや、「真の意味」を訳すとは?

魔法のカギはどこにある?

―― アメリカで開発中の電子頭脳に「健全な精神は健全な肉体に宿る」という日本語を翻訳させたら、「よい酒は美味いステーキに合う」と訳したそうだ ――

今思えば小さい頃に聞いた父の一言が、翻訳に興味をもった最初のきっかけでした。たぶん研究者の間の冗談だったのでしょうが、英語を習い始めたばかりの私は、"spirit"に「酒」という意味もあることを初めて知り、何ともしゃれた電子頭脳だなあと感心したのでした。ちなみにこの頃の「電子頭脳」は、コンピューターからSF小説に登場する人工知能までを網羅する言葉でした。当時の電子頭脳にとって、漢字は苦手分野だったのかもしれません。

本好きな子どもは物語の世界に浸るうちに、一つひとつの言葉が持つ意味に魅了され、漢語と大和言葉のニュアンスの違いに気づき、そのうちに、文章の行間に魔法のように隠された「真の意味」を探る楽しみにハマりました。頭の中でああでもない、こうでもないと考えを巡らせる作業が楽しいのです。彼女はこう言ったからこうなるに違いない。あ、でもここでこの言葉が出てくるってことはきっと裏に何かあるのね。ほら見なさい。やっぱりあの言葉がカギだったのよねー。まさに目くるめく幻想世界での言葉修行です。長じて韓国語の翻訳に携わるようになった今も、文脈にピタリと当てはまる単語が見つからないとイライラし、これだ! という爽快感を味わいたくて、夜中に何時間もコンピューター画面を見つめながら頭をかきむしる、楽しい世界に生きています。

機械は人を追い越すか?

韓国語は日本語と単語も構造もとてもよく似ているので、現在の日韓・韓日の機械翻訳の精度はすでに90%以上と言われています。韓国語をまったく知らない人でも、スマホやコンピューターのcopy and paste で自動翻訳すればおおかたの内容は理解できるようになりました。今後、ニューラル機械翻訳ソフトの深層学習が進めば、あと数年で100%に近い精度を達成するだろうと思います。そうなると私の楽しい世界はなくなってしまうのか? 私はもう歳だから引退すれば済むけれど、韓国語の翻訳者をめざす若い人は夢を諦めたほうがいいのか? そんなことはありません。

機械翻訳の完成度とは、文章としての完成度のことです。ためしにgoogleでごく一般的な駅のアナウンスである

「승객 여러분께서는 안전선 밖으로 물러서 주시기 바랍니다」

 を訳してみると、「乗客の皆さんは安全線の外に後退してください」と出てきました。たしかに単語はすべて正確に対訳されています。「皆さん→皆さま」「安全線→黄色い線、白線」「後退してください→お下がりください」にレベルアップすれば直訳としては完璧です。でも、この文章、何かおかしくないですか?

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翻訳の正解は「黄色い線の内側に(黄色い線まで)お下がりください」です。機械翻訳は文章としては完璧でも、韓国社会と日本社会の視点の違いに気がついていません。実はこれ、日本語学校の先生方にはよく知られた例文なのですが、「内と外」の視点が日本と違う国はけっこう多いのです。なかには「黄色い線の内側」を「黄色い線の幅の中」と理解して混乱する人もいるそうです。つまり、言葉がもつ意味は言語によっても個人によっても違うということです。

機械翻訳が「黄色い線の内側に」と変換できるようになるには、現在おこなわれている単語の前後関係や対訳の深層学習だけでなく、その社会の人間の行動や視点を、文章の意味と結びつけて学習する必要があるのです。

人は経験を言葉にする

その点、人間の翻訳者は幼い時から五感を使って意味を知り、行動に結びつけて学習します。韓国でも、挨拶で식사하셨어요?(食事はお済みですか?)と聞かれれば、一瞬の間に相手との関係を振り返り、相手の表情をチラッと見て、心配してくれているのか、一緒に食べようということなのか、儀礼的に聞かれているかを判断し、それに合った返答をします。「~라고 하지 않을 수 없습니다」の辞書の訳が「~と言わざるをえません」となっていても、本人が肯定的に話しているなら、自然に「~と言うべきです(と言えるでしょう)」という訳が思い浮かぶでしょう。

翻訳者個人のそうした体験の積み重なりが翻訳に反映されて、たとえば韓国語の기름(油)を文脈に合わせて原油、石油、ガソリン、食用油、脂質などと訳していくわけです。

一方で、

「정상회담을 하지 않을 방침을 굳혔다」(頂上会談をしない方針を固めた)

という文章では、日本で使わない「頂上会談」はすぐに「首脳会談」と訳せても、「しない方針→見送る方針」の置換えはウッカリ忘れてしまうことがあります。直訳で意味が通じるために、より良い訳がパッと頭に浮かんでこないのです。漢字語の검찰총장(検察総長→検事総長)、검사장(検事長→高検ならそのまま、地検なら検事正)なども、同じ単語があるゆえにミスが多い例です。これらの単語が、翻訳者にとってガソリンや食用油ほど日常的な存在ではないこともウッカリが多発する理由かもしれません。

本音を探る楽しさ

小説の行間に隠された「真の意味」とは、小説の全体像や作者が作品に託した思いを知ることでした。翻訳の場合は書き手の内面、つまり、書き手の本心を知ることと言えるでしょう。自分の考えを率直に書く人もいますが、政治家や学者の文章には若干ひねりを効かせたり、婉曲に表現したり、わざと回りくどくして混乱させる意図が含まれているものもあります。韓国語では、接続詞や助詞、接続助詞、副詞の使い方や文末表現を丹念に見ていきます。理工系のレポートや医学論文などの簡潔な文章でも、たまに助詞ひとつ、文末表現ひとつで、それまで明快だった論点が微妙に揺らいでいるのを見つけると、残念な反面でヤッター! とばかり、その微妙さをどう日本語に訳そうかと喜び勇んで悩みはじめる私はやはり言葉修行が好きなんだなぁと思います。

もちろん翻訳者になるスタートは、日本の契約文書で「乃至」と「乃至は」が別の意味をもつように、日韓それぞれの専門用語と用法を正確に学ぶことですが、それと並行して文章の意味を慎重に探っていく楽しみや醍醐味もぜひ味わってとお勧めしたいです。

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矢野百合子(やのゆりこ)

大学卒業後に韓国に留学。研究者を目指すはずが、いつの間にか通訳・翻訳が主な仕事に。好きな言葉は인생은 나그네 길(人生は放浪の道)。流された先で頑張ればいいと自然体で生きています。人間ひとり、猫2匹と同居中。

 

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