第1回 医学分野における通訳【医薬通訳事始め】

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医薬業界と他の業界との違いや、医薬に関わる通訳業務の種類、必要な知識、業務に取り組むにあたっての心構え、勉強方法などについて、医薬業界における通訳の第一人者である重松加代子さんが4回に渡ってお話しします。第1回は「医学分野における通訳」です。

医薬通訳vs医療通訳

通訳の現場で通訳者の紹介をされるときに医療通訳と紹介されることがあります。これは正確ではなく、医療通訳という言葉は、現在、病院で外国人患者への対応をする行為(問診票や診断書、同意書の翻訳や医師その他医療職から提供された情報の通訳)を指す場合に使われています。私たち会議通訳の現場で仕事をしている人の多くは、そこに関わっている人はいないと思うので、ここでは医療通訳は除いた話であるということを申し上げておきます。

 

では医薬通訳とは何かを一言で言うならば、会議、セミナー、講演会等で医学、薬学関連の内容の通訳業務です。 薬学関連には製薬会社との関わりでの仕事も多く、その内容には一般の医学会議とは異なる要素もあるので、今回はまず医学会議やセミナーにおける通訳に関して述べていきたいと思います。ただし、医学会議やセミナーでは薬の話も出てきますので、決してその両者がきっちり線引きされ、分かれるわけではありません。

医学の分野は医学にとどまらず

医学と一言で言っても、人間の体を知っていればそれで理解できるわけではありません。もちろん人間の体だけでも複雑ですが、医学は人間に関わる科学であるがゆえにあらゆる分野と繋がっていきます。人体の解剖や生理、代謝などの生物学的側面のみならず、工学、化学、物理学が必ず関わってきます。

 

例えば心臓病の治療に用いられるペースメーカーの場合は、電気生理学的な制御を行う装置であり、電気生理学や物理学が関わります。薬の中には化学合成により作られているものが数多くあり、当然化学や遺伝学、遺伝子学も関わってきます。また生体内で用いられるインプラントにおいては材料工学や生体力学が関わっています。

 

他分野の比重は医学の中の分野によっても変わってきます。関わる領域の広さが医学通訳における大きな特徴ともいえるでしょう。

 

私自身の経験で言うならば、整形外科領域の仕事を最初にした頃役立ったのは、それより前の数年連続して担当した、船に関する会議での材料工学の知識でした。様々な金属系材料に関する用語や、その力学に関する知識が非常に役立ったことを覚えています。もしその知識がなければ、すべてが新しいことでハードルがとても高くなっていたところでしたが、その部分だけハードルを低くできたと言えるかもしれません。

 

通訳者の中には理系出身者や医学看護系の出身の方もおられますが、絶対数的には文系出身者が多いのが現状ではないでしょうか。それでも医学は自分の体に関わるという身近さゆえに医学通訳に興味を持たれる方も多いと思います。

 

よく知り合いのお子さんで会議通訳になりたいという中高生に、話をして欲しいと言われることがあるのですが、その時には「決して理系の科目をおろそかにしないように」と伝えています。特に私の高校時代と異なり、今多くの高校では大学入試に関係しない教科の時間が減っている現状があるようですから、なおさらです。是非若い世代の方で生物、化学、物理の授業を選択しなかった方は高校の参考書など目を通してから専門書を読まれることをお勧めします。

 

医学も大きく分けると基礎と臨床に分かれ、基礎分野では生体機構や疾病の発症機序などの研究が行われ、また疾病の発症機序からさらに治療に向けての研究が行われており、一方臨床においては診療科特徴的な要素と診療科横断的な要素が存在します。あまり細かく分けないまでも内科、外科、整形外科、精神科では通訳に必要な知識も変わってきます。内科では解剖や代謝の知識が、外科では臓器に加えて特に血管や神経の解剖や手技に関する知識が、整形外科では生体力学的知識が、精神科では脳解剖の用語や知識が求められます。

 

また医学というと通訳をする対象は医師であると思われるかもしれませんが、会議やセミナーの発表者や聴衆には医師だけでなく、看護師、薬剤師、技師(放射線技師など)や作業療法士、理学療法士、言語聴覚士など様々な職種の方がおられ、それぞれの分野で違う言葉が使われていることもあります。

 

特に大きく異なるのが歯科の領域です。医師会と歯科医師会があるように、同じ人間の体に関わる領域でも医科と歯科にも大きな違いがあります。用語の面でも英語では同じ単語を使いながら日本語が違っていたりするので要注意と言えます。

準備はどこから始めるか

 前提条件として人間の体の解剖、臓器やある程度大きな血管や神経の名前を知っておかなければなりません。これは一夜にして覚えられるものではないので、医学通訳を目指す人は日頃から『人体解剖カラーアトラス』などを見て学んでいく必要があります。書店にもかなりたくさん並んでいますし、最近はアプリで三次元表示される「解剖アトラス」もあります。

 

ただし実際の通訳業務に関しては、どの分野でも共通することですが、最近は発表者の使用するスライド(パワーポイント)がギリギリまで出ないことが増えてきました。パソコンやiPadなどを使って、いつでもどこでもスライド作成作業ができるため、発表者はどうしても最後まで練り直しをしたいと思われるようです。学会の場合にはプログラムに予稿集がついているので、まずはそれを読む(それがない場合にはプログラムのタイトルでもある程度の予測がつきます)ことから始まります。

 

今はインターネットで文献検索が容易にできますから、資料が出ない場合には予稿集から拾ったキーワードと発表者名を使って、関連文献を検索して読むことができます。もちろん、対象としている疾患やそこに関わる解剖は見ておきます。そこまでの準備をするかしないかで、スライドが出てきた時の理解の速度に大きな差が出ます。現在の武器を活用しない手はありません。30年前にはこの作業に膨大な時間を費やしたものです。図書館で手探りで何時間もかけて文献を探したり、書店の書棚を端から端まで見たりしたものでした。

 

医学通訳をしていると、「病気の名前がたくさんあって、英語を覚えるのが大変でしょう」と言われることがよくあります。確かにたくさんあるのですが、病名の多くにはルールがあり、そのルールと解剖名をつなぐと病名になるものも多いのです。これは日本語も同じです。接頭語(hyper:高/過多/亢進、hypo:低/低下、supra:上、sub:下など)や接尾語(itis:炎、algia:痛、penia:減少など)の知識で、日英どちらにも対応できることが多々あります。最初は戸惑いますが、ルールを覚えることで対応できると安心できます。

 

ただし専門用語の中には固まっていないものもあり、また大学や考え方により異なる訳語が使われていることもあります。ある学会でAと訳すようにと指導を受け、別の場所での同じ分野の仕事でその訳語を使うと、「それは違うので辞書にある訳語を使うように」と言われたこともあります。考え方や捉え方の違いに由来するもので、専門家ではない私たちが議論できるものでないことが多く(議論できる場に入れていただければ別ですが)、その場その場の対応が余儀なくされます。

 

私は医療者ではありません。英語が堪能な医療者が通訳なさるのを聞いて、私にはそこまでできないと打ちひしがれることもあります。しかし、医療者の知識や経験はないけれど、逆に言語を客観的に見ることでバイアスを排除できる立場にあるとも言えます。それがこの仕事を続ける原動力になっている気がしています。

 

重松加代子
重松加代子(しげまつかよこ)

医学、薬学分野での通訳の第一人者。通訳歴は40年近くに及ぶ。圧倒的な知識と通訳スキルで、各種医学学会、セミナー、会議などの同時通訳者として活躍。また、県立広島大学にてコミュニケーション概論特別講義の講師も務めるなど、多方面にわたり精力的に活動。主な通訳実績は、数多くの機構相談をはじめ、慢性がん看護学会、日本精神神経薬理学会、日本胸部外科学会、日本薬学会、日本整形外科学会、アジア皮膚科学会、アジア慢性医療学会など。

 

 

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