第4回 主語というもの【訳文作成のヒント】

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ひとつの工夫で、より理解しやすくなったり、自然な日本語になったりする。訳文作成には「ヒント」があります。サイマル・アカデミーの講師も務める翻訳者・三木俊哉さんが、全4回の連載を執筆。第4回のテーマは「主語」です。


前回、次のような例にふれました。

(1) 私はきのう、A市に住み、B社に長く勤め、ピアノ演奏を趣味とする35歳の友人、山田花子さんとC駅で食事をした。

という文(日本語独特の「前重」の文)は、

(2) 私はきのう、山田花子さんとC駅で食事をした。彼女はA市に住み、B社に長く勤め、ピアノ演奏を趣味とする35歳の友人である。

のように、文をほどくことができる。さらに、

(3) 私はきのう、山田花子さんとC駅で食事をした。A市に住み、B社に長く勤め、ピアノ演奏を趣味とする35歳の友人である。

と、「彼女は」を削っても意味は通じる――。

ちなみに、これらの英語原文をあえて想像(創造)すると、

Yesterday I had dinner at C Station with Hanako Yamada, a 35-year-old friend who lives in A City, has long been working for Company B, and enjoys playing the piano as a hobby.

みたいな感じになりそうです。(1)は杓子定規に、後半の山田花子さんの説明をまず訳したもの、(2)や(3)はこの英文を頭からほぼ順番に訳したものと言えます。英語は構造的に言いたいことを先に言い、そのあとに付加的な情報を補足していく傾向にあるので、訳すときも、前から順に訳していったほうが英文の書き手の思考の順序に沿いやすくなります。

それはさておき、(2)から(3)で削った「彼女は」は、いわゆる主語というやつですね。削っても意味が通じるということは、日本語は主語がなくても問題ない、少なくともそういうケースが存在するということです。

前回扱った

このソフトウェアを使えば、動画や写真を共有できる。

という日本文にも、主語に相当するものがありません。「ユーザーは」という主語が隠れているとも言えますが、とにかくなくても通じるのは間違いありません。

代名詞に要注意

一方、英語は基本的に主語を必要とする言語です。したがって長めの文章のなかには、itとかthatとかheとかsheとかが主語として頻繁に登場します。こういう代名詞をいちいち訳していると、日本語としては非常にくどくなります。

主語(主格)に限らず、hisやmyのような所有格、himやmeのような目的格も英文にはたくさん出てきます。これも同じく、いちいち日本語に変換していたら、読みやすい文章にはなりません。

極端に言えば、

鈴木は焦った。はすかさず辞書を取り出した。だがの目に飛び込んでくるのは、が知っている日本語の単語ばかりだった。は、誤って国語辞典を持ってきたことに気づいた。

みたいなことですね。

主語論議

三上章さんという人が、

象は鼻が長い

というタイトルの本を、ずいぶん前に書いています。

従来、「~は」や「~が」で表されるのが主語だとされてきたので、この「象は鼻が長い」は主語がふたつのようにも見えて、頭がこんがらがります。でもそうではなく、この「~は」は主題・題目を提示する助詞なのだ、というのが三上さんの主張です。「象に関して言うと、鼻が長い動物だ」という感じでしょうか。

ほかにも「この曲は僕が20年前につくった」なら、「この曲? そう、僕が20年間につくったのよ」とか、そんなニュアンスかもしれません。

  • 何になさいますか?
  • 僕はコーヒー。
  • 私はオレンジジュース。

この場合の「は」も、主題や題目(「僕に関しては、コーヒーがほしい」)ということで理解できそうです(「僕はコーヒーをいただきます」の略だとも言えなくありませんが、素人の私が深入りできる領域ではありません)。「言論の自由は、これを保障する」みたいな法律文も、あるいは同じ範疇なのでしょうか。

いずれにせよ、三上さんはそれに伴って、日本語に主語はないという議論まで展開しました。やや最近では、『日本語に主語はいらない』という、そのものずばりのタイトルの本も出ています(著者は金谷武洋さん)。この点は専門家のあいだでも意見が分かれているようです。ただ、英語から日本語への翻訳という観点からすると、英語の主語を逐一日本語に訳す必要はない、とは間違いなく言えるでしょう。

構造の違い

日本語と英語は、当たり前ですが言語の構造がまったく違います。今回は主語というものを中心に、その片鱗にふれてみました。あと、語順の違いにも少しだけふれました。

そのほか、一翻訳者として感じる両者の大きな違い(英語にあって日本語にないもの)は、

  •  単数形・複数形: たとえばour governmentsと書くときの書き手の意図は?
  •  冠詞: 英語の書き手は、無冠詞かaかtheかを選択している。
  •  仮定法: I wish I were a bird. やIf I were a bird, I could fly to you. に限らない。

などです。サイマル・アカデミーの授業でまとまった文章を扱うときは、これらの点にも注意を促しながら、生徒の皆さんといっしょに読解、翻訳に励んでいます。

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三木俊哉(みきとしや)

京都大学法学部卒業。企業勤務を経て翻訳業。産業翻訳(英日・日英)および出版翻訳に従事。訳書に『ストレッチ』、『神経ハイジャック』、『スノーデンファイル』、『世界はひとつの教室』など。サイマル・アカデミー翻訳者養成コース講師。

【最初から読みたい】第1回


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