専門知識が求められるIR分野に関する通訳・翻訳。何をどこまで学べばよいのでしょうか。この連載ではIR通訳者・翻訳者として活躍する住本時久さんが、IRにおける投資家と事業会社の視点を主眼に、通訳・翻訳両方で役立つ知識をお話しします。
はじめに:背景と趣旨
通訳者・翻訳者は、IR分野に限らずあらゆる分野において、言葉を超えた内容理解の重要性を知悉しています。実際、IR通訳・翻訳を行うためには何を学習すればよいか、という質問を私もよく頂きます。しかし、IR通訳・翻訳用に整理された資料や教材はなかなか見当たらないのが実情です。
たとえば通訳者が会計学を学べばIR通訳ができるかというと、もちろん役には立ちますが、それだけで十分とはいえません。また、IRに関する書物も数多く出版されていますが、その多くは企業のIR活動に関するもので、投資家と企業双方の視点を知るべきIR通訳者にとっては、一面的な内容となってしまいます。さらに、会計やIRに関する資格取得に向けた勉強はどうかというと、有益ではあるでしょうが、上記の理由により一面的になりがちなうえ、通訳者にとって不必要な要素も多々カバーしなければならず、多忙な通訳者がそれに時間を費やすのはあまり効率的とはいえません。(もちろん他の目的もあって資格取得をめざすことを否定する意図はありません。)
それは、翻訳においても同様です。企業のディスクロージャー資料や決算説明会資料などのIR資料を的確に翻訳するためには、基本的な会計の知識に加え、読み手として想定される株主や投資家の視点を理解しておくことが必須です。しかし、何を学べばよいかとなると、やはり答えは簡単ではありません。
ということで、IR通訳・翻訳に資する必要にして十分な勉強方法はなかなか見つからないという事情があります。そこで、IR通訳・翻訳を学びたいという通訳者・翻訳者の要望にお応えする一助となるような背景知識と基礎知識を紹介することが本稿の趣旨となります。
ちなみに、通訳業界で定着している「IR通訳」という言葉は、私はあまり適切な表現ではないと考えます。というのは「IR (investor relations)」は企業側の投資家対応を表す言葉ですから、投資家と企業との間の双方向の対話及びその通訳に言及するにしては、一方的表現の感が否めません。とはいえ、とても便利な表現ですから、本稿においても便宜上「IR通訳」を使用しています。一方「IR翻訳」は、基本的に上記のように企業側が開示する資料の翻訳を指す言葉として、適切といえるでしょう。
本稿では複数回にわたり、IR通訳者・翻訳者が把握しておきたい全体像 (big picture)を見たうえで、 関係者の共通言語ともいえるファイナンスの基礎的要素を紹介していきます。テーマによって、通訳・翻訳に共通する内容、あるいは主にいずれか寄りの内容も登場しますが、全ての内容が両者にとって有益な視点・知識を含む内容となっているはずです。第1回目となる今回のテーマは『IR通訳の特徴と付加価値』です。通訳現場におけるエピソードを交えつつ、ファイナンス理論や訳出の工夫例も紹介していきます。
IR通訳の特徴と付加価値
IR通訳は、特に高い付加価値が求められる分野のひとつです。もちろん全ての専門的通訳は高い付加価値を提供しますが、IR通訳においては、正確に訳すだけではなく、投資家や企業側の会話の「メッセージ」あるいは「意図」を的確にとらえた訳出の工夫が重要となります。例えば、時間が限られたミーティングの中で、少しでも多くの質問をして適切な回答を得たい投資家が何を知りたいのか、を通訳者は理解したうえで訳出を工夫することが期待され、その工夫の程度が通常の通訳に比べて大きくなることもしばしばです。さらに最近は、投資家とのミーティングを担当する企業側参加者のなかに語学堪能な方も多く見受けられます。そうした方々を含めて重宝されるIR通訳者となるためにも、十分な付加価値の提供が望まれるでしょう。
そうした付加価値のイメージを示すために、エピソードを2つ紹介します。一つ目は「初級編」、二つ目は「中上級編」といえるかもしれません。
エピソード1
外国人投資家と英語が堪能な企業側IR担当者とのミーティングの場面です。その殆どが英語で進行され、時折、通訳者に内容を確認されるパターンのミーティングでした。その中で、投資家から次の質問があった際、企業側担当者はその意図を私に尋ねられました。(機密に触れないよう編集してあります。)
「御社が導入されている施策を市場は必ずしも評価していないようですが、どう思われますか。」
という質問でした。やや抽象的な表現のため、企業側担当者が即座にはその意図を理解されなかったのも無理はありません。解説を求められた私は、それが具体的には「株価が上がっていない」ことに関する質問であると説明しました。担当者は「なるほど、そういうことなのですね」と理解され、英語で説明を続けられました。
エピソード2
外国人投資家と企業側IR担当者(複数)とのミーティングでした。投資家からの質問が一通り終わった後、企業側IR担当者の一人から、投資家に意見を求めたいとのことで、次のような質問がありました(これも編集してあります)。
「弊社はこれまで海外IRにあまり力を入れておらず、ウェブサイトにも日本語IR資料しか掲載していません。御社(投資家)はおそらく独自の評価モデルを使用して弊社を見つけられたと思うのですが、これからも英語のIR資料は掲載しない方が良いですか」
ここでの質問は、今後、掲載しなくてもよいかではなく、掲載しない方が良いか、です。おそらく、この質問を文字通り訳出するだけでは、質問の意図は理解しにくいでしょう。実際、隣でこの質問を日本語で聞いていたもう一人の企業側IR担当者でさえ、その質問を聞き怪訝な表情を浮かべられていたほどです。私は、この質問の訳出に際し、次の一言を追加しました。 “... so that you can continue to identify inefficiency opportunities” (御社が今後も非効率性の機会を見つけられるように。) 日本語の質問に怪訝な顔をされていたもう一人の担当者(バイリンガル)は、通訳を聞いてようやく「あ、そういうことか。」と言って納得されました。投資家は、我が意を得たりといった顔で笑いながら「是非、このまま英語のIR資料は掲載しないでください」と答えられました。少し冗談も含まれていますが、このやり取りには、ある重要なファイナンス理論が関係しています。
ここでいう非効率性(あるいは効率性)は、いわゆる効率の良し悪しを表す言葉ではありません。ファイナンス理論において市場や株価が「効率的」という場合は、価値を決める情報が価格に反映されていることを意味します。逆に「非効率的」という場合には、価格に情報が十分に反映されていないことを意味します。つまり、株価が非効率的という場合、それは株価が適正価格ではないことを意味します。株価が適正価格を下回っていれば「割安」と考えられ、今後情報が株価に反映されて適正価格に修正されたときには株価が上昇する可能性があり、そうした銘柄に投資する投資家は、市場を上回るリターン(超過リターン)を得ることを期待します。したがって、上記の「非効率性の機会」は、「適正価格にない株価が適正価格に修正される過程で超過リターンを得る機会」を指します。
ちなみに、この考え方に深く関係するのは、ノーベル賞を受賞した複数の金融経済学者ユージン・ファーマやウィリアム・シャープらが提唱してきた「効率的市場仮説」(Efficient Market Hypothesis: EMH)です。簡単にいうと、株価に影響する情報はすべて株価に織り込まれており、投資家が市場を上回るリターンを得ることはほとんどできない、という仮説です。株式指数に採用されている銘柄を長期的に保有するパッシブ運用(または投資)による株価指数連動型インデックスファンドも、この仮説を背景に誕生し、普及してきたといえます。その一方で、必ずしも効率的市場仮説をそのまま受け入れず、逆に情報をいち早く入手し、独自の分析を加えることで、市場を上回るリターンを得られると考える投資家もいます。そうした投資家の手法は、一般的にアクティブ運用(または投資)と呼ばれ、つまり、株価指数に採用されている銘柄に限らず、独自の投資手法により銘柄を選択・取引することで優れたリターンの獲得をめざすものです。言うまでもなく、上記のエピソードに登場した投資家を含め、IR通訳の対象となる投資家の多くは、アクティブ投資家です。
私はこれまで、450社近くの上場企業と多くの海外機関投資家との間で延べ1,000近くのIRミーティングの通訳を担当してきました。上記のエピソードは、その膨大なやり取りの中から二例を示したに過ぎませんが、IR通訳の特徴とIR通訳に求められる付加価値のイメージが伝われば幸いです。通訳者がinterpreterであることを求められるのは全ての分野において共通ですが、IR通訳については、それに加えてfacilitator的な要素も重要といえるでしょう。
【続きはこちらから」第2回:市場参加者を知る
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