最終回 現場と緊急避難(後編)【「訳し下ろし」の同時通訳術】

現役の会議通訳者・池内尚郎さんが、同時通訳の実践的技法・術(わざ)を紹介していく連載コラムです。最終回のテーマは「現場と緊急避難」(後編)です。前回に続き、スピーカーの発言が聞こえない時や、訳語が出てこない場合の対処法についてのお話です。

対処法:後編

被害を回避する(Boosters)

前回は「被害を限定する(Limiters)」対策について説明した。


「現場と緊急避難」(前編)

 

次に、boostersについて。これはすでに説明したように事故回避策であるが、boostersがスポーツの応援団を指すように、ここでは通訳者の力を押し上げる工夫というふうに理解したい。

 

そのような工夫の一番手が単語リストだ。通訳者は、仕事を引き受けると準備の過程で単語リストを用意する。その形や内容は、十人十色。エクセルでびっしり書き込みソートできるようにする人もいれば、手書きのものを用意する人もいる。単語リストで重要なのは、すぐに目で捉えられるようなものにすることだ。詳しすぎても、すぐに見つからなければ意味がない。たとえば、必要最小限の単語リストを大きな字で書いて目の前に置けば、探すストレスから解放される。小さなことでも一つひとつストレス要因を取り除いていくと、効果は大きい。


第二は、目からの情報をフル活用することだ。たとえば、話者がスライドを使用してポインターで指す場合、それをフォローしながら通訳すると情報が頭に入りやすい。また、話者の動きを見ているだけでも、話者との一体感を感じて通訳に余裕が生まれたりすることもある。


第三は、通訳をしながらメモを取ることだ。メモと言っても、逐次通訳のときのような細かいメモではなく、話者の思考の流れ(train of thought)をフォローしたり、自分の通訳のリズムをとるために半分絵のようなものでも通訳の助けになる。ただ、これは、ある程度訓練がいるだろう。下手にやると、逆に集中力を削ぐ結果になりかねない。

第四は、ブースの中で自分が通訳していないときの作業である。このときは、通訳をしているパートナーのサポートを優先するが、その合間に自分が通訳をしていたときにつまずいた単語や表現を確認して次の順番に備えることが大切である。

最強の助っ人、パートナー(Wild Card)

最後にもう一つ、もっとも重要な緊急避難の方法について触れたい。wild cardという言葉がある。トランプでいうジョーカーのことだ。同時通訳の場面でwild cardといえば、ブースで一緒に仕事をするパートナーのことである。いままでlimitersとboostersの話をしてきたが、実はlimitersやboostersすべてを合わせた力よりも、パートナーひとりで数倍の力を授けてくれる。パートナーはブースの中の最強の助っ人である。だから、ブースでは躊躇せずパートナーに頼ろう。


ただ、ブース内での頼り方、頼られ方はなかなか難しい。wild cardはあくまでも通訳作業をスムーズに進めるための補助として使うものだ。ブースの中でパートナーが、頻繁にガサゴソと音を立てながらメモを取ると、逆に通訳をしている側の集中力を損なうことになる。通訳している側の様子をうかがいながら、訳出に困っているような単語や数字などを比較的大きな文字で書きとめ、そっと静かに見えるように差し出す———これがブース内のパートナーの作法だ。ところが、これが思いのほか難しい。ブース内で最良のパフォーマンスをめざそうとするなら、自らも最良のパートナーとしても振る舞える通訳者にならなければならない。


そうは言ったものの、ポスト・コロナ時代の通訳業では、パートナーが画面の向こう側にいてメモを見せられない事態が想定される。これからは、通訳者たるもの、独立独行を良しとする時代になるのだろうか。しかし、同時通訳は仲間との共同作業———その精神は絶やしたくない。近い将来、バーチャル・メモ帳のような機能が生まれてこないだろうか。そうすれば、絶妙のタイミングでパートナーからのメモがスクリーン上に現れる。通訳者は視線を動かすことなくメモを見ることができる。夢のwild cardの誕生だ。生身のパートナーを「パートナー1.0」とすれば、こちらは「パートナー2.0」———こんな進化を期待したい。

夢を信じ、孜孜(しし)として学べ

ここまでブースの中での「緊急避難」対策について述べてきた。繰り返しになるが、これらは「弥縫策(びほうさく)」、つまり言葉は悪いが「小細工」である。「小細工」に頼り続けていては、通訳力の向上は望めない。やはり、なんと言っても、ブース外での振る舞いがものをいう。ブースの外で通訳者がやるべきこととは、当たり前のことだが毎回の仕事に向けた事前準備、それと長期的な通訳力の鍛錬である。結局のところ、ブースの中での阻害要因を取り除く究極の方法は、理解力・分析力・知識力を鍛えること(これによって予測力が高まり心理的余裕が生まれる)、そして日英双方でactive wordsを増やしていくこと(これによってすぐに出てこない単語が減る)に尽きるといえる。


しかし、その道筋は険しい。その挑戦に終わりはない。本連載で幾度となく紹介した上智大学教授で翻訳者であった安西徹雄(故人)は、自著の中で翻訳者をめざす有意の人たちに「英語はわかっているなどとタカをくくらずに、生涯、孜孜(しし)として勉強を続けること」と叱咤激励の言葉を贈った。私も、通訳者をめざす有意の人たちに同じ言葉を贈りたい。ただ「勉強しなさい」と言われるだけでは、馬力が出ない人もいるかもしれない。そこで、もう一言。


 “Believe in the beauty of your dream.”(夢を持つすばらしさを信じよう)


原文はフランクリン・ルーズベルト大統領の妻、エレノア・ルーズベルトの言葉である。たしかに通訳者として着実に成長していくためには日々のたゆまぬ努力が肝心だが、同時にちょっと夢見心地の部分を作っておきたい。そうすると余裕が生まれ、そんな余裕からパワーと持続力が湧き出てくるだろう。

指南役としての私の役目はここで終わりである。読者諸氏、夢を信じ孜孜として学べ、免許皆伝をめざして。

池内尚郎(いけうちひさお)

サイマル・インターナショナル専属通訳者。上智大学外国語学部ロシア語学科で学ぶ。国際交流や国際政策に関わる仕事の後、サイマル・アカデミーで学び通訳者に。政治・経済・文化・科学技術など幅広い分野で活躍。同校通訳者養成コース会議通訳クラスで後進の指導にあたる。


■番外編:書籍紹介はこちらから

 

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