カギ括弧をどう訳す?――後編【ポール・ウォラムの視点】  

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日本語ネイティブ翻訳者が間違えやすい訳や文法を5回にわたりピックアップしてきた本シリーズ。最終回は「カギ括弧をどう訳す?」の後編です。驚きの事例とともに、Scare quote(注意喚起の引用符)についてお伝えします。

前回は、日本語のカギ括弧(「」)が出てきたら直接引用か間接引用かに要注意、という話でした。今回は、Scare quote(注意喚起の引用符)を取り上げます。

Scareと言っても怖がらないでください。ただし、日英翻訳または日本語話者が英語で文章を書くときの落とし穴になることもあります。Scare quoteとは英語の引用符(“”)の用法の1つで、引用符(“”)で囲まれた言葉に対する皮肉や、その言葉の信頼性や正確さに対する皮肉めいた疑いを示す使い方です。この用法の引用符(“”)をカギ括弧(「」)付で訳すと、決まりの悪い訳文になってしまうかもしれません。

日本語では、重要な語句や注目してほしい語句をカギ括弧(「」)で囲むことがあります。英語でもそうしたことはありますが、微妙にニュアンスが異なります。

英語では、ある語句を引用符(“”)で囲むと、それが特別な意味で使われていることや、専門用語であることを表します。単純に重要だからという理由で引用符(“”)を使うことは一般的ではありません

カギ括弧(「」)を使った日本語の例を見てみましょう。

中国がアメリカの「戦略的競争相手」の筆頭になって久しい。(『ニューズウィーク日本版』2021年1月26日号より)

この文では「戦略的競争相手」という言葉が、国際関係の分野で使われる一種の専門用語として使われています。この場合は英語でも引用符(“”)が使えます。

It is some time now since China rose to the top of the list of America’s “strategic competitors.”

次の例はどうでしょうか。最近、我が家に届いた手紙の一部です。

次回の「浄水器部無償交換」に関するご案内
……新しい浄水器部は、新たに「入れ忘れ防止機能」を搭載しています。

カギ括弧(「」)は重要なポイントを目立たせているだけで、それ以上の意味はありません。これが英語の手紙だったら下線か太字を用いるかもしれませんが、引用符(“”)を使うことはありません。引用符(“”)を使って英訳すると、浄水器部の交換が無償ではなかった、入れ忘れ防止の機能が働かなかった、などのクレームをつけているような印象を与えてしまいます。


しかし、単なる強調のためのカギ括弧(「」)がそのまま引用符(“”)になっている英訳を目にすることは、決して珍しくありません。とある銀行から送られてきた英語の依頼状もそうでした。

SAMPLE to Update your “Status of Residence” and “Period of Stay”

この依頼状を受け取った人は、横柄な言い方だと感じるでしょう。もし在留許可をもっているなら、在留期限がまだ切れていないなら、ぜひ提出してください、というようなニュアンスです。この依頼状を目にしたときには、思わず「大きなお世話」「礼儀をわきまえてくれ」と言いたくなってしまいました。もちろん、そんなことはしませんが。


次のような英訳も珍しくありません。

We at Happy Yoga Health Clinic wish to stress our commitment to the “health” and “peace of mind” of all our precious customers.

この文には、誰かが何らかのジョークを言おうとしているようなニュアンスがあります。引用符(“”)で囲まれた言葉がscare quoteになり、このクリニックが本当は健康にコミットしていないか、またはhealthという言葉を何らかの皮肉を込めて使っているような印象を与えます。その結果、ジョークを言おうとしているけれども、どこが面白いのか分からない文になっています。


これに関連する話で「いわゆる」という日本語を英訳するときも注意が必要です。よく考えずにso-calledと訳すと「いわゆる」に続く言葉の正確さや信頼性に疑問を投げかけているような印象を与えているかもしれません

フランスの哲学者であるヴォルテールは、神聖ローマ帝国について次のような言葉を残しています。

This body which was called and which still calls itself the Holy Roman Empire was in no way holy, nor Roman, nor an empire.

神聖ローマ帝国はその名前とは裏腹に「神聖でなく、ローマでなく、帝国でもない」と言っているのですが、ここでscare quoteが使えます。もしヴォルテールが21世紀のアメリカ人であったなら、こういう表現を使ったかもしれません。

The “Holy Roman Empire” (so-called) was in no way holy, nor Roman, nor an empire.”

2016年にノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランは、My so-called friends have fallen under a spellという歌詞を書いています。この文が指している人々が本当のfriendsではなかったことが示されています。


英作文や英訳の際には、意図せずに皮肉を言っているような印象を与えていないか注意したいものです

たとえば、東京を state of emergency(非常事態)とする宣言が出されました。 この言葉に不用意に引用符を付けて“state of emergency”とすると、宣言の真剣さを中傷する意図や、緊急事態宣言はただのジョークにすぎないと暗示する意図を感じさせてしまうかもしれません。

We are proud to offer our customers a “special service.”

この文は、special serviceに何か特別な意味を感じさせます。違法、または反社会的な性質のサービス(drug?)のような印象です。

最後に、こちらのフレーズをご紹介します。海外旅行の際には、皆さんもどこかで目にしたことがあるかもしれませんね。

「安心」「快適」な空の旅

“Safe” and “Comfortable” flight

この英訳をそのまま解釈すると、揺れの激しいフライトになることが予想されているというようなニュアンスになります。もちろん、そんな意図が全くないことは元の日本語を読めばよくわかります。それだけに、もし誤った印象を持たれてしまっては大変残念ですよね。


このように、意図せずにscare quoteを使ってしまうというscaryな翻訳を避けていただければ幸いです。


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ポール・ウォラム(Paul Warham)

イギリス出身。オックスフォード大学、ハーバード大学で日本文学を研究。英語の旅行ガイドブック記者、翻訳会社勤務を経て、現在はフリーランス日英翻訳者として実務翻訳から出版翻訳まで幅広く活躍。サイマル・アカデミー翻訳者養成コース講師。




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