翻訳対象となる医療機器および文書
医療機器には構造が比較的単純な器具から大型装置まで実にさまざまな種類があり、シリンジ、メス、鉗子、カテーテル、ステント、ペースメーカー、植込み型除細動器、人工関節、CT、MRIなどのハードウェアの他に、それらに組み込むか、それらと併用するソフトウェアが含まれます。これらの多様な医療機器について翻訳が求められる文書も非常に多岐にわたり、取扱説明書、仕様書、パンフレット、手術手技書、添付文書、試験報告書(非臨床、臨床)、製造販売承認申請書、医療機器製造販売承認申請書添付資料概要(Summary Technical Documentation:STED)、議事録の他に、プレゼンや会議の音声を文字起こしした資料などがあります。
このような医療機器分野の翻訳では、語学力とともに、機械、ITなどに関する技術的知識、医療に関する知識が必要であり、医療機器や医療を取り巻く規制に関する知識も求められます。しかし、これらの知識をあらかじめ備えておくことは当然不可能であるため、以下で説明するようにリサーチを都度行う必要があります。
リサーチの重要性
医療機器分野の翻訳でまずおさえておきたいポイントは、翻訳を開始する前に翻訳対象医療機器のイメージをある程度つかんでおくということです。対象機器の外観やサイズ感はどうか、その機器がどのような目的で使用され、どのような方法で操作され、どのような挙動を各操作段階で示し、どのように目的を達成するのかといったことをあらかじめ把握しておくと、その後の作業がスムーズになります。もちろん、翻訳作業開始後もさまざまなリサーチを必要に応じて行います。リサーチでは、イメージをつかむとともに、該当する分野で一般的に使われる表現、医療機器メーカー特有の表現の有無を調べることも目的とします。
医療機器分野でも他の産業分野と同様に翻訳の短納期化が進んでおり、時間的制約からリサーチに大幅に時間を割けないことがあります。そのような場合は医療機器メーカー、代理店、ユーザーがさまざまな医療機器についてウェブサイトやYouTubeなどに公開している実写やアニメーションなどの動画が役立つことがあり、比較的短時間で多くの情報を入手できます。
その他の主な情報源としては、該当する医療機器メーカーのウェブサイトに掲載されている対象機器または類似機器に関する記述、取扱説明書、仕様書、添付文書、パンフレットなどが挙げられるでしょう。もしそれらが見当たらない場合は、類似製品を扱う競合他社のウェブサイトが役立つこともあります。ただし、競合他社の資料で使われている表現がその会社に特有のものであり、対象機器のメーカーでは異なる表現が好まれるといったこともあるため、注意が必要です。
独立行政法人医薬品医療機器総合機構(PMDA)のウェブサイトには医療機器に関する様々な情報があります。例えば、「医療機器情報検索」ページに医療機器の一般的名称などを入力して幅広く検索すると、結果一覧に添付文書へのリンクの他に審査報告書やSTEDへのリンクが表示されることがあり、それらから詳細な情報を得ることができます。また、日米欧医薬品規制調和国際会議ガイドライン(ICHガイドライン)は医薬品規制について定められたものですが、医療機器の分野であっても安全性情報に関する翻訳などの際に参照する必要があります。品質、安全性、有効性等に関する各種ICHガイドラインの英語版と日本語版を、PMDAのウェブサイトから閲覧できます。
辞書引きについては、市販の辞書ソフトとともにMerriam-Webster Onlineなどのオンライン辞書を活用し、串刺し検索機能をもつ辞書検索ソフトでそれらを一括検索すれば効率が上がります。翻訳では、原文としての単語や熟語、または訳語候補としての単語や熟語それぞれがもつニュアンスを調べ、同義語とのニュアンスの違いを把握したうえで適切な訳語を選択することが大切です。そのためには、辞書にある用例に目を通すだけではなくインターネットでも用例を調べます。日本語であれば国語辞典等で、英語であれば英英辞書等で定義を確認し比較することも、ニュアンスの違いの把握に役立ちます。訳語選択では辞書に挙げられている訳語に縛られず、文脈や場面に最もふさわしい訳語を選択することを心がけましょう。また、日英翻訳の場合は、ある名詞と相性の良い形容詞や動詞は何かといったコロケーションをOnline Oxford Collocation Dictionaryなどで確認し、不自然な英語にならないよう注意します。
訳文の作成と見直し
訳文作成では、リサーチをとおして得られたイメージ、知識、表現方法を活用し、翻訳に関する指示(指定用語の適用、数値と単位との間の半角スペースの有無など)を守りながら、対象読者(例:専門家向けか、患者等一般向けか)に適した言葉の調子で、原文に寄り過ぎず、原文から離れ過ぎないように訳文を組み立てていきます。
マニュアルにおける手順などの翻訳時に、原文の記載だけでは必要な内容が十分表現されておらず、そのまま訳すと必要な情報が十分伝わらない場合があります。そのようなときは必要に応じて訳文に最低限の補足を加えますが、補足した理由を別途申し送りすることが重要です。
名詞表現が多い英文に引きずられて日本語訳でも名詞表現を多用すると、読んだときに動きが感じられない、ぎこちない日本語になります。特に、それが機器や身体の動作を表現する場面などであれば、必要な箇所を動詞表現に変換し、訳文の読み手がその動作を容易に連想できるように訳出するよう心がけましょう。
見直しは訳文の品質を大きく左右する要素の1つで、おろそかにすると成果物としての信頼を著しく損ねることになります。そのため、見直しに必要な時間を割くように作業全体のペース配分をあらかじめ考えておくことが大切です。
見直し作業は大きく分けて、センテンス単位と文書全体とで段階的に行います。センテンス単位の見直しでは訳抜け、誤訳、誤植などの有無をチェックします。文書の下から上に逆順でセンテンスごとにチェックしていく方法は、各センテンスにのみ集中するうえで有用です。文書全体の見直しでは、用語や表記が統一されているか、全体をとおして指示を守っているか、読み下しの際にリズムが詰まるような箇所はないか、内容がイメージどおりに正確に伝わるか、より良い表現に変更すべき箇所はないか、といった点をチェックします。また、理系文書では数値やその範囲を示す表現(例:「以上」対「超」、「以下」対「未満」)に誤りがあると文書全体に対する信頼性が大きく低下するため、数値部分だけのチェックを文書全体に対して個別に行うとよいと思います。
これまで述べた点に注意しながら日頃翻訳にあたっています。拙稿が少しでも皆様のお役に立てば幸いです。
※この記事は『技術英語ジャ―ナル No.05 VOL.42 March - 2021』にも「医療機器分野における翻訳の基礎知識」というタイトルで掲載されています。
精密工学修士号およびMBAを取得後に、日本国内で技術、営業、貿易業務を経て、中国に駐在。その後医療系翻訳者をめざし、翻訳学校在籍中に医薬品安全性情報の日英・英日翻訳を在宅で開始。後に医療機器分野の日英・英日翻訳業務を中心に従事するようになり、本年でフリーランス翻訳歴9年目。
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