ロシア語翻訳の難しさ【ロシア語ホンヤクの世界】

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英語以外の言語の翻訳事情や、仕事のエピソード、スキルアップ情報などを、翻訳者がリレー形式で紹介します。今回は「ロシア語ホンヤクの世界」です。ロシア文学愛好者も思わず膝を打つ、翻訳の難しさと工夫点を、プロとして20年近く活躍するベテラン翻訳者がお話しします。

 

ロシア語翻訳者といっても、年数が経つばかりで、このようなコラムをお引き受けするのはただただお恥ずかしいのですが、全くの初心者の方には何かお伝えすることができるかもしれないと思い、書かせていただきます。

固有名詞の定訳

外国語翻訳に共通することかもしれませんが、ロシア語翻訳では固有名詞の定訳がない場合のあることが難しい点の一つです。 官公庁の書簡等を翻訳する機会がよくありますが、露和翻訳の場合ロシアでは省庁再編等も多く、様々な組織名など日本語の定訳がない場合があります。

例えば翻訳の参考資料、日本の外務省や在外公館のサイト等を検索しても、原文に完全に一致する和訳がないことがあります。そのような場合には、それらを参考にした上で名称の和訳を考案していきます。ただし、一番重要なことは、それがどの機関・組織を指しているのかが、読み手に具体的に伝わることです。そのため原文の名称に英訳がある場合、あるいは複数の和訳が存在する場合には、その点を訳注で添えることにしています。

和露翻訳の場合には、日本の組織名等をそのまま露訳しようとすると難題になることが多く、もし英訳があれば、主にその訳を基に露訳します。反対に、ロシアの組織名の場合には、元々のロシア語名称が何であるのかを調べます。しかし原語名称と和訳された名称との間に微妙な差異が生じていて、本当に同じ組織を指しているのか確信が持てない場合には、訳注をつけ「ロシア語の正式名称は『……』と思われるため、訳文中ではそれを使用した」などと記します。

修飾語の多い表現

もうひとつロシア語ならではの難しさは、一文一文が日本語に比べ修飾過多であることです。

わかりやすい例は宴席での乾杯かもしれません。日本では「乾杯!」と言えば十分ですが、ロシアでは必ず「我々を温かく迎えていただき、また、このように親しく交わる機会も設けてくださり、心から感謝します、……。」などとずっと続き、それからようやく「それでは、ここにいる皆様のために乾杯!」という風になるのです。私達から見れば長すぎるように感じるのですが、逆にロシアの方々からすると、日本式は短すぎて味もそっけもないと感じられるようです。 文章でも同様です。

たとえば、「親愛なる先生方に対し、我々の子供達を長年にわたり、育て、教育し、心を配るという、大きく、かつ責任ある仕事をして下さったことに、心より感謝し、深い謝意を申し上げます。」という原文をそのまま全て和訳すると、軽快さに欠ける重たい文章になってしまいます。その重たさがロシア語の特長であるかもしれませんが、訳文では「長年にわたり我々の子供たちを教育してくださったことに対し、先生方に心より感謝申し上げます。」などとして、修飾語を省くこともよくあります。

言葉の地域差

ロシア語には方言はありますかとよく尋ねられるのですが、ロシア国内では日本の関東と関西のような大きな違いはないと思います。ただしロシア語はロシアだけでなく、旧ソ連邦から独立した他の国々でも使用されており、そこでは各国の国語に起因する癖があって、それもロシア語の難しい点です。世界中で話されている英語に、各国、各地域の訛りがあるのと同じようなものかもしれません。

ソ連邦に含まれていた15の共和国が、その崩壊後にそれぞれ独立し国家を形成しました。そのうちの多くの国で、現在でも独自の民族の言語とロシア語が併用されていますが、その程度は様々です。

私自身は政府開発援助(ODA)の関係で、中央アジア地域の国々の文書に接する機会が多くあります。その地域には旧ソ連から独立した五つの共和国がありますが、ロシア語をめぐる状況は同じ地域内でも各国によって異なります。

独自の民族語を国家語としロシア語を公用語として制定しているカザフスタンやキルギスでは、ロシア語の使用頻度は非常に高く、文章もわかりやすいのですが、民族語を自国語とし英語重視のウズベキスタンやトルクメニスタン、ソ連崩壊後の内戦によりロシア語教育がされなかった時代のあるタジキスタンなどは、難解な文章が多くあります。ロシア語に携わっていく中で、そのような文章にも慣れていく必要があると感じています。

翻訳の際には、行間を読み、曖昧さのない輪郭のはっきりした訳出ができるように心がけていますが、先日、京都に住む10代の少年に、話し方がきつすぎると指摘されました。私自身は関東出身ですので、もちろん地方や世代の違いもあると思うのですが、言葉を曖昧にしないという自分の日頃の姿勢は、このようなところにも出てくるものなのかと、何かはっとさせられました。

様々な文章があると思うのです。曖昧な表現にとどめ、言外に込められた意を汲んでほしい、というのが作者の意図であれば、翻訳作業の途中では徹底的に解読したとしても、最終的には、 原文の持つ曖昧さ、やわらかさを保った訳文を作り出す、そのような翻訳ができるようになりたいと思っています。

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M.T.

ロシア語の響きにあこがれ、東京の専門学校にてロシア語を学んだ後、サンクト・ペテルブルグに1年間留学。その後、中央アジアにて3年間勤務し、帰国後、フリーランス通訳・翻訳者となって20年近く経つ。


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