英語以外の言語の翻訳事情や、仕事のエピソード、スキルアップ情報などを、翻訳者がリレー形式で紹介します。今回は「スペイン語ホンヤクの世界」。スペイン語翻訳者・冨田充子さんが、一つのキーワードをとことん調べる中で感じた、言葉の持つ不思議な力についてお話します。
学生時代は土壌学を専攻し、大学の演習林をフィールドにしていました。そんな背景もあり、環境関係の翻訳をお受けすることも多いのですが、数年前、東北は気仙沼で牡蠣を養殖しながら植林活動をする漁師さん、畠山重篤さんの著作「カキじいさんとしげぼう」をネイティブの友人とスペイン語に共訳する機会に恵まれました。
同じ翻訳とはいっても、児童書であること、多くの擬態語や擬音語など、実務翻訳とは異なる難しさもありましたが、心構えとしては分野を問わず通じるであろうエピソードをご紹介したいと思います。
「牡蠣」についてのいろいろ
本書は、岩に張り付いた大きな牡蠣のカキじいさんが、少年しげぼうに、森と川と海のつながりについて語る物語です。牡蠣は私が以前住んでいたメキシコでは「ostión」でしたから、何の疑問も持たずに「ostión」で翻訳を始めました。しかし、牡蠣の訳語は重要です。ふと思って手元の辞書をめくってみました。牡蠣、とひくと「ostra」となっていてostiónとはありません。別の辞書も見てみました。辞書によっては、「ostraはカキ、マガキ、ostiónはイタボガキ」とあったり、「カキはostra、大きなものはostión」となっているものもあります。
スペイン語はスペインを始め、ラテンアメリカ諸国でも話されていて、国によって使う単語やその意味などが違うことがあります。同じスペイン語を話していても、国が違う人たちがお互いの使う単語の意味がわからず質問しあっている場面に遭遇したこともあります。牡蠣も国によって呼び名が異なるのかもしれません。子供向けの本ですし、注釈は避けたいところです。大きな牡蠣はostiónとしている辞書もあるし、ostiónはostraに増大辞がついたもののようですから、ostiónでよいのかもしれませんが、納得のいく形で訳語を使いたいと、もう少し調べてみることにしました。
カキじいさんはマガキなのか
各国の知人に聞いてみたところ、どうやらメキシコや中米ではostión、南米ではostraが一般的だということがわかりました。南米でも国によってostiónで通じる場合もあれば、聞いたことがないと言われる場合、もしくはchoroなど全く別の名前が出てくることもありました。メキシコや中米だとostraの解釈は「貝全般」「牡蠣のむき身」「真珠貝」など千差万別。畠山さんはスペインのガリシア地方とご縁があり、スペイン語版はその地方の方々にもお届けする予定です。
スペインではどうなのでしょうか。スペインではostraでもostiónでも通じるけれど牡蠣の種類が違うらしいこと、ガリシア地方の牡蠣はostraと呼ばれていること、さらに調べてみると、マガキなどCrassostrea属はostiónで、ヨーロッパヒラガキなどのOstrea属がostraと呼ばれていることがわかりました。スペイン語の文献で、マガキはostiónもしくはostra japonesa(和牡蠣と訳せるでしょうか)である、という記述も複数ありました。私は牡蠣のことは全く素人です。カキじいさんがマガキなのか確認する必要がありそうです。
直感と理屈のつながり
論理的なアプローチをしている一方で、そのイメージから、カキじいさんはostiónであってostraではないとずっと感じていました。言葉の響きでは、Ostiónじいさんは朴訥とした物知り爺さん、Ostraじいさんは物腰が柔らかな紳士の印象です。そんな私の話に、ostiónとは言わない国の友人も同意してくれました。そして畠山さんが養殖しているのはマガキだとの確認がとれたのです。
これで心が決まりました。納得してostiónを使えます。素敵なイラストも手助けになってくれるでしょう。何よりも理屈で納得する前に、イメージとして抱いていたostiónでよかったということに、言葉の持つ計り知れない不思議を感じた一件となりました。
名前の音と綴り
主人公の名前「しげぼう」の表記も悩みどころでした。スペイン語のアルファベットの発音は英語と違うため、ヘボン式ローマ字表記をスペイン語風に発音すると全く違う音になってしまうことがあります。「Shigebo」とすると、スペイン語ではgeは「へ」の音、さらにアクセントが終わりから2番目の音節「ge」につく「シヘボ」という発音になり、日本語の「しげぼう」とはかけ離れてしまいます。
中南米には日系の人たちも多くいますが、日本語の名前はそのままヘボン式を維持して自己紹介のときにどう発音するかを説明するそうです。でも、この本では、読者に「しげぼう」とすぐに呼んでもらうことが重要だと考え、名前の綴りを変えてしまうことに抵抗感はあったものの、愛称でもあるし、音を優先させることに決めました。そこで「しげぼう」の音に近くなるよう綴りは「Shiguebó」とし、一方、著者名の「しげあつ」さんは、そのままヘボン式でShigeatsuとすることにしました。翻訳とは、伝えたいことを見極めて言語間にある違いに臨機応変に対応するための決断のプロセスと言えるかもしれません。
人と人の心をつなぐ
学生時代の学びが、児童書翻訳という新しい世界を開いてくれました。 森と川と海のつながりを科学的に解明するために、畠山さんと私の母校の間に交流があったことにも、不思議なご縁を感じました。畠山さんの活動を支える方々との出会いもあり、一見孤独な仕事である翻訳は、多くの人々とのかかわりの中での作業であると感じています。
ちなみに畠山さんの植林活動のスローガンは「森は海の恋人」。ガリシア地方には「El bosque es la mamá del mar(森は海のおふくろ)」という諺があり、畠山さんも驚かれたそうです。いずれも、森が培う養分が川を通じて海を豊かにするという自然の摂理を謳ったものです。自然に寄せる思いはどこも同じようです。そんな人の心に流れる共通の思いを繋ぐことのできる翻訳者でありたいと思います。
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