英語以外の言語の翻訳事情や、仕事のエピソード、スキルアップ情報などを、翻訳者がリレー形式で紹介します。今回は、「ドイツ語ホンヤクの世界」。明治時代の、とある物理と化学のテキストを翻訳するにあたり直面した「解けない謎」とは――?
はじめに
翻訳の仕事をしていると、ありとあらゆる種類のテキストを読むことになります。そして、当たり前のことですが、そのテキストを理解できないことには、翻訳はできません。ただし、テキストを理解するにあたって考えなければならないことは、言語のレベルにとどまるものではない、と痛感するできごとがありました。翻訳の仕事をしていると、ありとあらゆる種類のテキストを読むことになります。
その時私の手元に回ってきた少量のテキストは、ドイツ語で書かれた物理と化学の試験問題でした。明治初期の日本の教育機関で出題されたもので、作成者はドイツ人の先生。そもそも物理や化学など、私にとっては学校時代の記憶がスッポリ抜けている分野なので、問題の意味を理解するのがまずは大変でした。四苦八苦して何とかひと通り訳し終わったのですが、それでも残った「解けない謎」がいくつかありました。
その1 Todnatriumとはなんぞや。
natriumは、ナトリウムでしょう。でもTodnatriumって? Todというのは、ドイツ語だと「死」という意味になります。「死ナトリウム」なんて聞いたこともないし、そもそもそんな物質があるとも思えないが……何かのナトリウムの俗称? それとも、昔はこういう言い方をしていたのだろうか?
と思いながら、この単語をとりあえずはグーグル検索に放りこんでみました。
すると、いくつかひっかかりました。ただしそれらは主にグーグルブックス(米国グーグル社が提供する書籍の全文検索サービス)の検索結果で、19世紀末に書かれたらしい書物ばかりです。そしてよーく見ると、この単語、それらの本のなかでは
Jodnatrium
と表記されています。つまり、最初の文字がTではなくて、Jなのです。Jなら、この物質名は「ヨードナトリウム」になります。しかし、私の手元にあるその試験問題には、明らかにTodnatriumと記載されているのです。最初の文字はJではなくTです。誤植であることは間違いありません。JodnatriumのJがなぜかTになってしまっているのですね。
なんでまたこんな間違いが?
確かに、TとJは、形は似ています。でも、形が似ているだけでこんな誤植が起きるなんて、普通は考えられない……
と思ったのですが、そこでハタと気がつきました。
確かに、コンピュータでテキストを作成する現代なら、こんなミスはまず起きないでしょう。TとJでは、キーボード上の場所も全く違います。でも、このテキストが書かれて印刷されたのは明治初期のことです。コンピュータは存在しなかった時代です。出題者であるドイツ人の先生は、この試験問題をおそらくは手書きで書いたはず。手書きでなかったとすれば、タイプライターが使われていたでしょう。
そして、その手書き、あるいはタイプライターの原稿を植字したのは、日本人の植字工だったはずです。明治初期の日本の植字工で、ドイツ語が読めて理解できた人がいたとは思えません。その植字工の目には、冒頭のJがTに見えたのでしょう。だから、JodがTodになってしまったのだ!
なーるーほーどー。
というわけで、Todnatrium問題は解決したわけですが、すぐに2つめの謎が続きました。
その2 Adm. Inkaltとはなんぞや。
という箇所がありました。まず、Adm.という略語(のようなもの)に見覚えがありません。Adm.といえば何となく、「アドミニストレーション」という気がしますが、アドミニストレーションなんかがここで出てくるわけはないので、これは論外。さらに、Inkaltなどという単語はドイツ語には存在しません。明らかに、またもや誤植です。多分、前述のJがTに見えたのと同じパターンで、植字工の目には、何かが「Inkalt」に見えたのでしょう。
さて、何だろう?
この謎が解けないことには、そもそもこの箇所を訳せないのだから、考えるしかありません。幸いにも納期に余裕があったので、私はこの謎を数日このまま放置しておきました。そして頭が完全にリセットされた数日後、改めてこの箇所を眺めてみたときに、ひらめいたのです。
そうか、InkaltはInhaltに違いない。原稿のhがkに見えたために生じた誤植だ!
ということは、
で、意味としては「4 Adm. 面積の正方形の面」になります。
……。
……。
……。
ピーーーーーーーーン(ひらめいた音)
そうか! 「Adm」は、原稿では「Qdm」だった部分だ! つまり「Quadratmeter」、「平方メートル」だ!! 「面積4㎡の正方形の面」だー!
植字工の目には、QがAに見えたんだ! だからこんなことになったんだ。なるほど!!
翻訳作業の過程でこんな「推理」をしたのは初めての経験でした。そしてこういうプロセスは、翻訳作業の本筋とは一見関係のないことのようにも思えますが、実は非常に重要なものなのだと実感したのです。つまりテキスト読解には、字面の読解だけでなく、そのテキストが書かれた「背景」をすべて含めて考えることも不可欠なのだ、と。
今回のテキストの場合、
- 書かれたのが明治初期(つまりワープロもコンピュータも存在していなかった時代)で、従って原稿は手書きかタイプライターによるものであったはず
- 印刷は植字工の技術に頼る活版印刷であった。そして原稿はドイツ語で書かれていたが、植字をおこなったのはドイツ語が読めない(理解できない)日本人であったに違いない
という2点を考慮に入れなければ、TodnatriumもAdm. Inkaltも謎のまま残ってしまっただろうと思われます。
テキストを読む・理解するって、なんて深い、なんておもしろい作業なんだろう、と改めて感じたできごとでした。
(注)この記事は、2014年11月に「サイマル翻訳ブログ」に掲載されたものです。
中村有紀子(なかむらゆきこ)
国文学を勉強するつもりだった大学で、第2外国語として選択したドイツ語と恋に落ちたことで人生が思わぬ方向に曲がる。その後、スウェーデン語の侵入により人生の先行きはさらに不透明に。2012年以降、独日・瑞日翻訳者としてスウェーデン在住。
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