通訳者のいきがい【小松達也アーカイブス 第1章】

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連載「アーカイブ・シリーズ」では、日本の同時通訳者の草分けでサイマル・インターナショナル創設者のおひとりでもある小松達也さんのエッセイを特集します。50年間にわたる現役通訳者時代のエピソード、プロ養成者の視点から見た通訳者についてなど、第一線を走り続けた小松さんならではの思いやことばをお届けします。

はじめに

数年前、人気コメディアン・松本人志が出ているアルバイト人材サービス「タウンワーク」のコマーシャルに通訳(私は仕事ではなく人を指す場合には「通訳者」という表現を広めているのですが)の役割で出ているのをご覧になったことがあると思います。通訳という仕事が一般レベルにも親しまれるのに役に立つなとうれしく思いました。その頃、私の従弟の孫の中学3年の女学生が「通訳について」という学校の課題発表の準備のために私のところへインタービューに来ました。通訳とはどういう仕事か、どういう点が楽しいのか、通訳者になるにはどうしたらいいか、というような質問です。

通訳とは

「通訳というのは違う言葉を話す人の間で、スピーカーが話した言葉ではなく、その人が相手に伝えようとした意味(sense/meaning)を伝えるのだ、そのためにはスピーカーがどんな人なのかをよく知らなければならない。そして(日本語と英語との間の場合には)英語はバイリンガルといえるほど、ほぼ自由に話せるくらいの高いレベルの力がなければならない」ということ、また「言葉の力だけでなく内容に関する知識も十分持っていなければならない」ということを話しました。このことは彼女を少し驚かせたようです。2つ以上の言葉が十分できれば通訳はできる、と一般には考えられている傾向があります。しかし言うまでもなく、私たちが通訳する相手の人は政治家、経営者、学者といった専門家の人たちです。知識がなければ、彼らの言うことを十分理解することはできません。通訳は言葉と知識、50:50 だと彼女にも伝えました。 

通訳者としてのキャリア

私が通訳らしい仕事を始めたのは、大学2年生の時、(当時の)運輸省の観光通訳ガイドの資格を取ってからです。その後は春休みと夏休みはしばしば、ある時はアメリカ人の夫婦とあるいは30~50人くらいのグループ(その時はガイドは2~3人)と日光、箱根、京都など観光地を訪れました。また2年生から卒業まで8月には広島か長崎で開かれる原水爆禁止世界大会の通訳も務めました。最初は随行通訳が多かったのですが3年生からは外国代表のスピーチの通訳をするようになり4年生の時には簡易装置を使った同時通訳が導入されました。当時の私の英語力はまことにお粗末なものでしたが、原水爆禁止には心から賛同していましたし、若さと情熱でカバーして何とかこなしました。まだこの頃は通訳という職業は日本では存在していませんでした。

大学を卒業した年(1960年)から6年間、ワシントンD.C に住んで日本生産性本部 (J.P.C.—Japan Productivity Center)が定期的にアメリカに派遣していた経済視察団の随行通訳を勤めました。当時の我が国の経営者の多くが「先進国」アメリカの企業・工場を訪れて経済やビジネスを学び「昭和の遣唐使」と呼ばれた大規模なプロジェクトです。この貴重な経験で英語力をさらに伸ばしただけでなくアメリカ社会や経済についての知識を身に付けることができました。このプロジェクトには40人以上の人が通訳者としてアメリカで働きました。その中には國弘正雄、村松増美といった人たちも含まれ私と共に1965年に帰国後、個人として通訳をするだけではもったいない、企業化しようというのでサイマル・インターナショナルという会社を作ったのです。幸い、1964年の東京オリンピックを経て、日本も急速に国際化しつつあったので国際会議や会合が多く開かれるようになり、開業早々から会社は多くの注文ににぎわいました。

通訳の魅力

通訳の仕事のどういう点が楽しみか? という点については、私が長年の経験で感じたことを話しました。

(1)好きな語学にいつも接し、だんだん磨いてゆくことができること
(2)言葉と一緒にアメリカやイギリスなどの世界各国の文化が分かり視野が広がること
(3)仕事でいろいろな外国に旅することができること
(4)普通には会えない優れた人に会えること
(5)自由職であること

実際、私は世界の60か国以上を1泊以上の滞在で訪問しました。1970年に外務省のアフリカ使節団の通訳としてエチオピア、タンザニア、コンゴなどアフリカ10か国を訪問したことは一生の思い出です。ジョンソン、ニクソンなどの大統領、キッシンジャー、パレスティナ解放機構のアラファト、ネルソン・マンデラ、ダライ・ラマ師、など歴史上の人物と通訳者として接しそれぞれの人柄を味わうこともできました。これが通訳者としての一番大きな喜びだと思います。また9:00 to 17:00のサラリーマンではなく、忙しくはあったが基本的には自由職であること。などを従弟の孫に話してやりました。目を丸くして聞き、一生懸命メモを取っていましたので印象には残ったと思います。彼女が通訳者になりたいと思ったかどうかは分かりません。

※この記事は2016年9月にサイマル・インターナショナルのWeb社内報に掲載されたものです。

小松達也さん
小松達也(こまつたつや)

東京外国語大学卒。1960年より日本生産性本部駐米通訳員を経て、1965年まで米国国務省言語課勤務。帰国後、サイマル・インターナショナルの設立に携わり、以後、社長、顧問を務める。日本の同時通訳者の草分けとして、首脳会議(サミット)、APECなど数多くの国際会議で活躍。サイマル・アカデミーを設立し、後進の育成にも注力した。サイマル関係者の間ではTKの愛称で親しまれている。

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