第2回 八分目の妙技【「訳し下ろし」の同時通訳術】

本連載では、現役の会議通訳者・池内尚郎さんが同時通訳の実践的技法を紹介していきます。ご自身が、日々の実践を通じて気付いたことを、通訳者の方や通訳者をめざす方々に向けて「実践則」としてまとめたコラムです。第2回は「八分目の妙技」です。

「腹八分目に医者いらず」という言葉がある。

満腹になるまで食べずに腹八分目に抑えておけば、体によく病気にもならない、という格言だ。ここから転じて、「腹八分目」は何事もほどほどにするのがよい、という意味でも使われる。この言葉を借用して、私は同時通訳のことを「八分目の妙技」と呼びたい。妙技とは「巧みの技」のことなので、「八分目の妙技」とは、一杯一杯に訳さないで、少し控えめに構えながら、聞き手に分かりやすく訳出する技量という意味になる。

 

こう言うと、「八分目とはどういうことか、話者の内容の80%程度を訳すことで満足していてはプロ失格ではないか」という叱責の言葉が聞こえてきそうだ。おっしゃる通り。日頃、情報を出すことに四苦八苦して、八割も出せたら御の字だと開き直りたいと思っているプロ通訳者には、この言葉は胸が痛む。それでも、八分目がよいと主張したい。以下はその理由だ。

かなえられない夢?

八割がいいかどうかを判断する前に、そもそも100%、つまり完璧な通訳(翻訳)とはどういうものかを定義する必要がある。それは、意味において正確であり、表現において巧みであることを言う。

 

最近、マーク・ポリゾッティ(Mark Polizzotti)という著名な翻訳家が"Sympathy for the Traitor: A Translation Manifesto"という翻訳論を著しているが、その中で翻訳とはfidelityとfelicity(正確さと巧みさ)のせめぎ合いであると論じている。

 

両者はそもそも合性が悪い。昔から翻訳の世界では、翻訳は"the beautiful, unfaithful ones"(マーク・ポリゾッティ)と呼ばれる。「不実な美女」だ。原書への忠誠を捨てて、訳出先の言語の美しさを追求する。そうでなければ「貞淑な醜女」となる。その場合、原書への忠誠を守るあまり、訳出先の言語がもつ自然さが失われる。「不実な美女か貞淑な醜女か」は、ロシア語通訳者でエッセイストの米原万里(故人)の著書の題名にある通り、翻訳界の永遠のテーマなのだ。だから、『薔薇の名前』の著者、ウンベルト・エーコ(Umberto Eco)が言うように、「完璧な翻訳はかなえられない夢※1」なのかどうかは別にして、相当に難易度が高いことは間違いない。

(※1) "…a perfect translation is an impossible dream."

だとすれば、完璧な通訳もまた同様に相当ハードルが高い。

 

第一に、翻訳はたっぷりと時間をかけることができるが、通訳にはそれが許されない。翻訳家は一文も訳が思いつかない場合、何日もかけて辞書を引き、資料を渉猟し、訳語を考え抜くことができる。通訳者はそのような推敲の時間は与えられない。すぐに最適な訳語が思いつかない場合、次善の訳語を出すか、放念するか一瞬のうちに行動しなければならない。

 

第二に、翻訳は訳し方の順序の自由度が高いが、通訳ではそのような自由は許されない。たとえば、翻訳ならば、一段落中の文章の順序を入れ替えることは可能だ。しかし、通訳では一パラグラフ聞いてから文の順番を変えながら訳出をする余裕はない。時間の無慈悲な流れに抗うことはできないのだ。

 

第三に、翻訳では訳文が長くなることは許容されるが、通訳では訳文をできる限り簡潔にすることが至上命題になる。同時通訳は「同時」といっても不可避的に時間差が生じる。そのうえに訳文が冗長になれば、話者から遅れ始め、ついには追いつけなくなる危険がつねに伴う。

最良のものは良きものの敵なり

世界的に著名な同時通訳者で、『わたしの外国語学習法』という本を書いたロンブ・カトー(Lomb Kató)は、時間が「通訳者という職業の専制支配者である」と言っている。同時通訳は、通訳者が時間という拘束具を身にまとったまま、なんとか訳を捻り出していかなければならない因果な商売なのだ。いきおい、同時通訳者は「前もって、妥協という悪魔に身売り」(ロンブ・カトー)してしまうことになる。

 

だから八割で我慢してくれ、と哀願の言葉が喉元まで上がってくるが、それでも「八分目の妙技」が「妥協の産物」と考えてほしくない。ここで言いたいのは、「開き直りの効用」とでも呼ぶべきものだ。同じロンブ・カトーが引用する言葉に、「最良のものは良きものの敵なり※2」という格言がある。これはフランスの哲学者、ヴォルテールの言葉だ。

(※2)"The best is the enemy of the good."

実は、同じような意味の格言が他にもいくつかある。

 

「良かれと思って、良いことまで台無しにしてしまう※3」(シェイクスピアの『リア王』の一節)

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」(『論語』の一節)

(※3)"Striving to better, oft we mar what’s well."

すべてを訳そうとしてはいけない

「最良のものは良きものの敵なり」が教えてくれることは、同時通訳では「すべてを訳そうとしてはいけない」(『言葉を育てる』米原万里著)ということだ。同時通訳ですべてを訳そうとすると、限られた時間内ではどうしても単語に飛びつき繰り返しが増え、表現は冗長になり、意味が良く伝わらなくなってしまう。逆に、字面にこだわらず訳していけば、訳出情報量は八割程度になるが、意味は聞き手に十分に伝わる。だから、意味を捉えて自分の言葉で訳出するという構えをつくるためには、「すべてを訳そうとしてはいけない」という覚悟を腹に据えなければならない。

 

「すべて訳そうとしてはいけない」という覚悟の持つもう一つの合理性は、話し言葉はあまり論旨とは関係のないfillers(つめもの)が少なくないという事実である。『英語通訳の勘どころ—体験的通訳論』(小林薫著)によると、話し言葉の場合、「言い淀み、言い換え、言い直し、沈黙、確認、つめもの、間投詞、セキ払いなどさまざまのnoiseや余計なfillersがゴマンと入ってくるから」、「三分の一」キャッチして訳出すればよいとまで言っている。

 

もう一点、私が「深追いの罪」と呼ぶ行為についても触れておきたい。同時通訳をしていると、訳を出している間にも耳から情報が次々と入ってくる。そのとき、通訳者は新しい情報を訳出している文章の中に組み込みたいという衝動に駆られる。もちろん、どうしても必要な情報は入れなければならないが、中にはさほど重要ではない、もっと言えばどうでもいい情報も少なくない。にもかかわらず、その新しい情報を挿入しようとして、訳出のリズムが崩れクラッシュしてしまうことがある。自軍が優位と思い込み、敵軍を追って陣中深く入り込みすぎたために、敵軍に包囲殲滅されるようなものだ。まさに「過ぎたるは猶及ばざるが如し」である。

 

第二次世界大戦前のイギリスで、防空レーダーを発明したロバート・ワトソン=ワット(Robert Watson-Watt)という人物がいる。この人がつくった防空システムのおかげで、イギリスはナチス・ドイツによる空軍攻撃を撃退することができた。救国のエンジニアの一人だ。このエンジニアが座右の銘にしていたのが、こんな言葉——「いいものは三番目で行け、二番目は来るのが遅すぎる、一番目は永遠に来ない※4」。これを、ワトソン=ワットは「不完全礼賛(Cult of the Imperfect)」と呼んでいたという。

(※4)"Give them the third best to go on with; the second best comes too late, the best never comes."

実務家は現場を知っている。理想も大事だが、急場に役立たない絵空事は無力だ。結局は、「役立つものが最良のもの」(What works is what is best.)なのだ。それが「八分目の妙技」の真意である。

池内尚郎(いけうちひさお)

サイマル・インターナショナル専属通訳者。上智大学外国語学部ロシア語学科で学ぶ。国際交流や国際政策に関わる仕事の後、サイマル・アカデミーで学び通訳者に。政治・経済・文化・科学技術など幅広い分野で活躍。同校通訳者養成コース会議通訳クラスで後進の指導にあたる。

【続きはこちらから】「訳し下ろし」の同時通訳術 第3回

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