第1回 「訳し下ろし」の同時通訳術【「訳し下ろし」の同時通訳術】

本連載では、現役の会議通訳者・池内尚郎さんが同時通訳の実践的技法を紹介していきます。ご自身が、日々の実践を通じて気付いたことを、通訳者の方や通訳者をめざす方々に向けて「実践則」としてまとめたコラムです。第1回は「『訳し下ろし』の同時通訳術」です。

 

 「日本語と英語では語順が逆なのに、よくあんなことができますね」

 

ときおり、現場でそんなお褒めの言葉を頂く。大半は世辞である。それでも素直に嬉しい。私は鼻の穴を膨らませる。膨らませながら、「いやあ、ほんとは逐次通訳の方が難しんですよ」——これは半分が見栄、あと半分は本音だ。

 

日本語は文中、動詞が最後に来る。英語は動詞を文の前の方に持ってくる。だから、サゲがいまいちの小話のようなシーンが通訳世界では起きる。たとえば、こんな感じだ。

 

「ボリス・ジョンソン首相は記者会見で、断固たる口調で英国はEUから脱退すべきだと、明言しませんでした」

 

これを素直に訳すと次のようになる。

 

“Prime Minister Johnson did not say decisively at the press conference that the UK should leave the EU.”

語順のジレンマ

つまり、日本語のこの一文は最後まで聞きおわらないと、あの英文は捻りだせない。「断固たる口調で」などという目くらましの語句があるから、この辺りまで待てば、同時通訳者は得々として訳しはじめるはずだ。このとき、まだ動詞は聞こえてこないが、「結末は見えた。断言したのだ」と、通訳者は確信する。好事魔多し。通訳者は文章の最後まで聞いたところで絶句する。後の祭り。It’s no use crying over spilt milk.

 

一方、飛び出しの衝動を抑えに抑え、動詞を確認してようやく訳しはじめた通訳者には通訳の神様が微笑んでくれる。冒頭の賛辞に浴する栄誉を得る。ことほど左様に、語順のジレンマは悩ましい。

では、こんな文章ではどうだろうか。今度は英文だ。

 

“A great many Americans who had never paid much attention to Japan, and probably would have gone through life ignorant of and uninterested in Japan, were required to take notice when the war came.” 注1

 

一見して、この文章は頭でっかちだ。主語が異常に長い。主語に続く述語(動詞)を待たないと訳しはじめられないとすると、通訳者は脳の短期記憶領域をギリギリまで広げて情報が溢れださないように必死に耐えないといけない。だが、たとえその苦難を乗りこえられたとしても、同時通訳の場合は、今度はそれを瞬時に日本語にしなければならない。その間も話者の言葉は続く。だから、通訳者はアウトプットだけに集中できない。インプットを取りこぼさないように必死に聞き耳を立てる一方で、口をフル回転させて訳を吐きだし続けなければならない。

 

話者の発話を聞きはじめてから通訳者が発話するまでの時間を、通訳業界の専門用語でEVS(Ear Voice Span)と呼ぶ。このEVSが長ければ長いほど、通訳者のストレスは増大する。長ければ長いほど、記憶領域のザルの目からこぼれ落ちる情報が増える。だから、同時通訳者にとって、もっとも望ましいのはEVSを可能な限り短くすることだ。しかし、速射砲のように単語に飛びついて訳出をしようとすると、通訳者は話者の論旨がよく理解できなくなり、訳は出ているが聞き手には意味不明という状況が生まれる。EVSはできるだけ短くし、かつ聞き手に分かりやすい訳を届ける方策はないものか。「記憶の無間地獄」から解放されて、スピーカーの思考の流れ(train of thought)に沿いながら巡航速度で通訳ができるメソッドはないものか。それが、この連載のテーマである。

 

蛇足だが、冒頭、「ほんとは逐次通訳の方が難しい」というのは「半分は本音」と書いたが、それは逐次通訳の場合、この「記憶の無間地獄」に耐えなければならならいからだ。

分割し、つなぎ合わせる

先の英文の例題に戻る。この文章は、長い主語と短い述語でできているが、もう少し細かく分解してみると、入れ子のように、主語に当たる部分は2つの「主語+述語」部で構成されていることが分かる。

 

“ A great many Americans (who) had never paid much attention to Japan”
“ (A great many Americans) probably would have gone through life ignorant of and uninterested in Japan”

 

この2つの文は関係代名詞文だが、通訳の便宜上、独立した文章として訳してみたらどうだろう。そうするとこんな訳文が考えられる。

 

「大半のアメリカ人は日本に注意を払うこともなく、おそらく自分の人生の中で日本のことなど知らずに興味も持たないまま過ごしてきたはずでした」

 

これだと、本文の主語の後に続く動詞(were required)まで待たなくても、訳出を始めることができる。そして、ここまで訳すことができれば、あとは本文の述語部(were required to take notice when the war came)を加えるだけだ。ここの訳は、たとえば「戦争のせいで気にしなければならなくなった」。そして、最後の仕上げ。2つの訳文を、適当な接続詞を使ってつなぎ合わせればよい。完成訳は次のようになる。

「大半のアメリカ人は日本に注意を払うこともなく、おそらく自分の人生の中で日本のことなど知らずに興味も持たないまま過ごしてきたはずが、戦争のせいで気にしなければならなくなったのです」

 

この例文では、原文を3つの独立した小文に分解して、順送りに訳している。これはEVSを短くしようとした結果であるが、実はこちらの訳の方が、英文和訳的な訳文よりも聞き手にははるかに分かりやすいのである。英文和訳調に訳してみると……。

 

「日本にさほど注意を払ったこともなく、おそらく自分の人生の中で日本のことなど知らずに興味も持たないまますごしてきたであったであろう大勢のアメリカ人が、戦争が起きたので日本のことを気にしなければならなくなったのです」

情報はリニアに流れる

なぜ前者の方が分かりやすいのか。それは、言語がなんであれ、人にとって耳から入ってくる情報はリニア(時間的に一方向のみ)だからだと、私は思う。

 

人間の脳は、耳から入ってくる情報を順送りに処理できているとき負担がもっとも少ない。情報を一旦ホールドして、後から来る情報と組み合わせるまで待つのは、逆に負担が大きい。だから、意味の最小単位となる主語と述語の間隔を短くして、その間に雑多の情報をできるだけ潜り込ませないで、単文を積木のように積み上げていくようにすれば、それが脳にとってはストレスが一番少なくなる。つまり、一番分かりやすい。

 

近年の優れた翻訳作品を読むと、往年の学術翻訳本のように文章の後ろから訳しもどすような、いわゆる翻訳調が影を潜めていることに気づく。これは、その方が原文の雰囲気を壊さない文体を用いつつ、読者に分かりやすさを提供できるからだと思う。

 

さて、ここまで読んでくださった読者は、題名にある風変わりな言葉、「訳し下ろし」の意味をもうご理解いただけたと思う。私のような世代は、中高生時代に英文読解の修行をやらされた。そのときに、日本語と英語では語順が違うので、文の後から訳し始めるのが正しいと教えられ、関係代名詞の場合は「〜するところの」という言葉を添えて訳しさかのぼれと言われた。後から前へと「訳し戻る」のが英文読解の「正解」とされた。「訳し下ろし」は、その真逆を正解とする。可能な限り、文頭から訳し下ろしていくのだ。「訳し下ろし」の似た表現に、「順送り訳」や「先入先出法」(FIFO=First In, First Out)などがある。いずれもその意味するところは同じである。

 

本連載では、この「『訳し下ろし』の同時通訳術」を中心に同時通訳の実践的技法を紹介していく。始める前に、本連載の特徴を記しておきたい。まず、これは通訳理論の解説本ではない。論らしき内容に触れるところもあるが、それは自分の体験に裏付けられた経験則(rule of thumb)のようなものだ。また、これは通訳教本でもない。どのように体系的に通訳訓練をするのか、そのようなことを説明する箇所は登場しない。逆に、この連載は、話題があちこち飛び回るエッセー風の読み物だ。気軽に読み飛ばしてほしい。さらに、これは通訳者の体験記ではない。優れた通訳体験本はすでにいくつも出版されている。そちらを希望する向きは、このシリーズで通訳関係の本を紹介しようと思うので、それを参考にしてほしい。

 

この連載は、「論」ではなく「術(わざ)」を扱う。現役の通訳者として、日々の実践を通じて、私自身がこうではないかと気付いたことを、同業者や同業をめざそうとしている人たちに「実践則」としてまとめたものだ。いわば、同通術の指南書である。さて、頼りになる指南役が私に務まるかどうか、しばらくお付き合いを願いたい。

注1『英文翻訳術』(安西徹雄著、ちくま学芸文庫)で紹介されている例文。原文は、『日本と私』(サイデンステッカー)


池内尚郎(いけうちひさお)

サイマル・インターナショナル専属通訳者。上智大学外国語学部ロシア語学科で学ぶ。国際交流や国際政策に関わる仕事の後、サイマル・アカデミーで学び通訳者に。政治・経済・文化・科学技術など幅広い分野で活躍。同校通訳者養成コース会議通訳クラスで後進の指導にあたる。


【続きはこちらから】「訳し下ろし」の同時通訳術 第2回

 

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