異文化を楽しむ【イタリア語ホンヤクの世界】

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英語以外の言語の翻訳事情や、仕事のエピソード、スキルアップ情報などを、翻訳者がリレー形式で紹介します。今回は「イタリア語ホンヤクの世界」。イタリアと日本の文化の違いから生まれる翻訳の機微をイタリア語翻訳者、講師として長年活躍する吉野律子さんがご紹介します。

途切れなく続く法律の条項

イタリア語科のクラスメートと共に語学留学したフィレンツェでの学生時代、重厚な歴史と文化の壮麗さに夢心地でした。絶妙なバランスで糸杉の点在する田園では、景観を公共財産として尊重し、将来へ継承する凛とした姿勢を感じました。

イタリアは地域計画等の法整備によって国土保全の強い意志を示す国家の1つです。そんな景観関連法を翻訳する機会もありました。起点言語(lingua di partenza)と目標言語(lingua di destinazione又はd’arrivo)の間において等価(equivalenza)を保証することは肝要ですが、形容詞の羅列、前置詞句の並列、条件節の挿入、関係詞の導く補完等を駆使して、段落全体が一文という長文が登場します。

例えば、“...... per gli interventi di manutenzione ordinaria, straordinaria, di consolidamento statico e di restauro conservativo che non alterino lo stato dei luoghi e l'aspetto esteriore degli edifici……”と延々続きます。正確さに留意して「その場所の状況及び建築物の外観を変質させない通常及び臨時の保守点検、静的補強ならびに保存修復の作業については……」と訳し始めますが、関係詞cheの制限用法に固執しすぎた感覚が残ります。そこで、関係詞を解放すると「通常・臨時保守点検、静的補強、保存修復作業のうち現場状況や建築物の外観を変質させない作業については……」と訳すことが可能です。時には、流れのままに区切り、明確に積み重ねていくことも大切だと思います

 

対応する訳語は英語だった?

あらゆる分野に豊富で膨大な専門用語が存在します。国営放送RAIのニュース動画、関連機関・企業の公式サイトをはじめ、新聞や専門誌で日々進化する語彙を追跡します。空気のごとく感じる母語をさらに高める努力の大切さは言うまでもありません。今朝の新聞に「情報の改ざんや流出を防ぐブロックチェーン(分散型台帳)や現実世界を仮想空間上で再現するデジタルツイン(電子の双子)などが実用化され……」という解説があり、門外漢の私もブロックチェーン、デジタルツインに対応する日本語に出会いました。そこで、これに対応するイタリア語を把握しておきます。

台頭する技術ソリューションに関する“le soluzioni tecnologiche emergenti come il digital twin e la blockchain”という説明を検索で確認すると、il gemello digitaleではなく男性名詞化した英語il digital twin、la catena di blocchiではなく女性名詞化した英語la blockchainが拡散しています。また、スマホの取扱説明書でも「ホーム画面」を英伊混合のla schermata Homeという用語で表現していることがわかります。

 

文法構造や精神構造の違い

テクストの翻訳では社会・文化的背景の相違も大いに影響します。比喩やユーモアのセンスも当然違うので、最適語を求める迷路で右往左往することがあります。例えば、イタリア語の比喩表現magro come~(~のように痩せた)で、~に入る頻出名詞はacciuga(アンチョビ)、chiodo(釘)、lampione(街灯)、Quaresima(復活祭前の肉食を断つ四旬節)等です。

ある小説で、“un’infermiera magra come una lastra”という一節に出会いました。哲学者シュライアマッハーは、読みやすさを優先する訳出を「著者を読者に向けて動かす訳」、原文の異質性を重視する方略を「読者を著者に向けて動かす訳」と大別したそうです。「レントゲン写真の原板のように痩せた看護婦」という訳に、一部の日本人読者は違和感を抱くかもしれません。でも、読み手がさらに想像を膨らませ「ペラペラのX線写真を連想させる骨と皮だけの看護婦」のイメージに達するのを期待すればよいのかもしれません。一方で、踏み込んだ説明的訳出を要する文学作品の場合など、その翻訳自体が文学に昇華する可能性があるのも確かだと思います。

とはいえ、文法構造も「笑いのツボ」も異なり、白旗を掲げて訳注でも付けようかと溜息をつくこともあります。既述の小説から別の箇所を引用します。

(回診に来た若い医師)“Mi ha detto il dottore che Lei non mi mangia”.
(食事を拒否する入院患者)“Se La mangiassi sarei un cannibale”.

上記の太字miは直接補語(私を)ではなく「倫理的(心理的)与格」(dativo etico)に分類される間接補語人称代名詞です。発話者の「心理的な関与」や「心配する気持ち」を暗に示す用法です。よって、この場合miは訳出しません。別れ際に「元気でね」の意味で使うStammi beneにおけるmiも同様です。回診の医師は「主治医から聞きましたよ、あなたが食べてくれないって」と心配な様子。患者は余計なおせっかいとばかりに、わざとひねくれて「あんたを食べないって? あんたを食べたりしたら俺は人食い人種でしょうよ」と反発。miに内包された「案ずる気持ち」を一刀両断する皮肉な態度は、病院での「あるあるシーン」として読者の笑いを誘うはずの場面です。

互いに異なる社会・文化的背景をベースとする人々に、同質の笑いを共有させることも、決して容易ではない翻訳の宿題でしょう。清水幾多郎氏は『論文の書き方』(岩波新書)で「文章においては、言葉は常に孤独である。会話で協力者が果してくれた役割の一つ一つを、文字を使って自分で果していかねばならないのである」と主張されます。文字という限界の中で、異質な精神構造を楽しみ、そこから学ぶ感受性を持ち続けたいと思います。




 

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吉野律子(よしのりつこ)

大阪外国語大学イタリア語科卒業、学生時代フィレンツェに語学留学。ローマ郊外とシエナ県モンテプルチャーノに約17年間在住、日伊ビジネスグループ主催会議や技術提携等の通訳・翻訳活動。帰国後、ルネサンス美術史を研究するために放送大学院修士課程・文化情報プログラム修了。諸分野の翻訳、文法講読講師。




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