始まりは姉妹の失踪。ロシアが舞台の秀逸なフィクション【通訳者・翻訳者の本棚から】

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サイマルで活躍中のプロが、通訳者翻訳者人生にかかわる1冊を紹介する「通訳者翻訳者の本棚から」。「大きな案件の前に気合を入れたいときに読む本」「落ち込んだ時に読みたくなる本」「いつも仕事で使っている本」「スキルアップや知識向上のために活用している本」など、さまざまなテーマの中から選ばれた今回の1冊は……?

私の1冊:Disappearing Earth

翻訳の仕事はどうしても机に向かうことが多いので、旅に出ることが気晴らしのひとつになります。もう1年以上前ですが、コロナが広がる直前、2019年12月に主人と二人で10日間の日程でロシア旅行に行ってきました。私はクラシックバレエのファンなので、サンクトペテルスブルクのマリンスキーとモスクワのボリショイのバレエ鑑賞を軸にして、オペラ鑑賞、美術館廻りも入れて個人旅行の形でプランを組みました。ロシアは全く初めてで、往路の飛行機の中でキリル文字や簡単なロシア語を付け焼刃で事前に勉強していきましたが、街中でも若い人を中心に英語も結構通じました。またモスクワのTwins Gardenというレストランを筆頭に食事もおいしく、充実した旅行となりました。

道中ではロマノフ王朝時代から革命を経て社会主義国だった歴史の重みを感じるとともに、欧米とは少し感じを異にして、やや控えめながら我慢強そうなロシアの女性の雰囲気が印象に残りました。

帰国して、ロシア関連の本を何冊か読んでみることにしました。私は翻訳という事実・正確さをベースにした仕事をしていますが、読書の際は想像力が十分発揮されたフィクションを読むことが多く、その一冊がここで取り上げる米国の若手の女流作家によるDisappearing Earth(Julia Phillips, Vintage)です。

本書はモスクワとは時差が9時間もあるカムチャッカ半島が舞台です。夏、8月のある日。カムチャッカ最大の町ペトロパブロフスクで、昔、大地震の後、近くの村が津波でさらわれて完全に消えてしまったことがある、という話をしていた少女の姉妹二人が失踪する(誘拐の可能性)事件が起きたところから始まります。

その後、ひと月ごとに区切られて、登場人物が変わりながら話が展開していくのですが、どの月も主要登場人物は女性です。そしてひとり親家庭への蔑視、男女カップルの間の微妙な感情の揺れ、検査後即そのままガンの手術を受けることになった女性、同性愛的な性向を持った人の生きにくさ、“変人”を持った家族の息苦しさ、子供が消えてしまった母親のつらい心境等々、重くるしく簡単には解決しない普遍的な問題がテーマとなっています。そしてカムチャッカの土着の少数民族も頻繁に登場人物として出てきて、雄大な自然とそこを基盤にしてきた彼らの風習や現代において必ずしも容易ではない生活振りにも視点が向けられています。

このような中、本書の中ではロシアの女性達は逆境においても、自己の感情をごまかすことなく、何とか現実を受け入れ、生き抜いていくように描かれていることに感銘を受けました。

本書内の表現を例として取り上げれば……

“The sameness of each day, each year, acted like the endless reopening of a cut, scarring those summers into her memory.”

“But now she would live. She had to. It was what she did: live while others could not. There was no pleasure in it.”

“During these long summer days, the old sun dies, and the new one is created. The gates of the spirit world open. This is a time when the dead walk among us. Those who are living can be reborn.”


本書は最後の7月の章において、それまでのバラバラだった主要登場人物が結びつきながら、誘拐犯発見に向けてストーリーが急展開しますが、失踪した少女がどうなったか? 本当に誘拐だったのか? は不透明なまま終わります。

本書の作家Julia Philipsはカムチャッカに2度滞在(最長1年)した経験で本書を執筆したそうです。アメリカ人がロシアの辺境の地を舞台にして現地人の心情に通じるフィクションを書いたわけで、驚くべきことだと思います。

他者の感情・思想を理解しようとする中で、言語、国籍、民族、性別等の違いにより相互理解に難しさがあるのは当然で、その点を強調することは容易ですが、逆に言語が異なっても同じ人間である以上、究極的には相互理解が可能ということは忘れてはいけないと思います。
翻訳の作業はそこを基盤としていますし、そのためには母国語以外の外国語理解に長けた人間が必須です。

 


【和訳版】邦題『消失の惑星【ほし】』(井上 里訳/早川書房)

そのほかのおすすめ書籍


The Siege
(Helen Dunmore, Penguin UK)


同じくロシアを題材にした書籍です。第2次大戦中ナチスによるレニングラードの900日におよぶ包囲の物語。戦闘場面を描かずに人々の包囲下の生活を描写し、戦争の悲惨さを訴えています。


【和訳版】邦題『包囲』(小泉博一 訳/国書刊行会)



 

 

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酒井由利子(さかいゆりこ)

国際基督教大学大学院修士課程修了。銀行勤務を経て、フリーランス翻訳者に。翻訳歴通算20年。日英ビジネス翻訳全般。得意分野は経営・会計(特にIFRS関連)、IR全般、金融、税務(特に移転価格関連)、政治、文化、料理等。



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