契約書の翻訳―辞書との付き合い方【翻訳者リレーコラム】

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スキルアップのために必要な知識や情報、日々の仕事での失敗や成功のエピソードなどを、英⇔日翻訳者がリレー形式で執筆します。今回は契約書の翻訳がテーマです。契約書といえば、難解な言い回しの無味乾燥な文章を一言一句間違いなく翻訳する――そんなイメージを覆す翻訳者の創意工夫とは? 思わず契約書を訳したくなる必読のコラムです。

契約書の翻訳で最も重要なことは正確さ。ただし、原語を一語一句訳出する、というような翻訳では読みにくいだけでなく、かえって正確性を阻害してしまう可能性すらあります。正確さを意識した上で一読で理解でき、翻訳文であることを意識させない訳文を生み出すにはどうすればよいでしょうか。そのために私が普段心がけている「辞書との付き合い方」について紹介します。

今回は基本のanyを例に挙げてみます。

anyは辞書(ここでは『ジーニアス英和辞典 第4版』を参照しました)では、

1. [疑問文で] 何か, どれか, だれか;少しでも

2. [否定文で] どれも, 何も, だれも;少しも

3. [通例肯定文で;強調;しばしば ~+単数名詞]

a. どれでも, どんなもの[人]でも, だれでも

と続きます。

・Purchaser may cancel the order for any reason whatsoever at any time during the term of this Agreement.

A) 「買主は、本契約期間中いかなる時も、いかなる理由によっても、注文を取り消すことができる。」
B) 「買主は、本契約期間中随時、いかなる理由によっても、注文を取り消すことができる。」
C) 「買主は、本契約期間中、いかなる理由によっても、随時、注文を取り消すことができる。」
D) 「買主は、本契約期間中いつでも、理由の如何を問わず、注文を取り消すことができる。」

上記の文章では、一読してざっと上記の4つの訳文が思いつきます。どうやらこの文章の肝は、繰り返される「any」をどう処理するかにあるようです。この文章のうちのいずれかを選ばなければならないとすると、私はためらうことなくDを選択します。


上記のanyはいずれも辞書の 3. a. の意味に該当します。契約書ですから、any reason whatsoeverは「いかなる理由によっても」、at any timeは「いかなる時にも」すなわち「いつでも」または「随時」と訳せます。

Aの文章はいかにも冗長です。「いかなる~も」が間を置かず連続して並んでいるのがその理由です。Bはどうでしょう。一見して分かるのは「本契約期間中随時」の部分が、漢字ばかりで読みにくいということです。契約書が読み物である以上、この読みにくさが文章の質にマイナスに働いてしまいます。CはBの弱点を克服するために「随時」を「いかなる理由によっても」の後ろに持ってきました。しかし「本契約期間中」と「随時」という時間的状況を表す表現の間に「いかなる理由であっても」という別の状況の表現が入り込んでいるので、読み手は一瞬ではありますが、視点が振り回されてしまいます。些細なことかもしれませんが、この積み重ねが訳文の質に決定的な影響をもたらします。

ではどうすれば良いか。辞書の「表記」にとらわれないことです。ここでat any reason whatsoeverの訳を「いかなる理由であっても」と固定しなければならない理由はありません。「いかなる理由であっても」は「理由に関係なく」と読み替えることが可能です。ですが、この表現では稚拙さが拭えず、契約書の文章にそぐわないので「理由の如何を問わず」とします。こうすれば冗長になることも、視点を振り回されることも、契約文の格調を損なうこともなく、一読して文の意味をとらえることができます。

・Any additional terms and conditions proposed by Purchaser in its purchase order will be deemed null and void.

「買主が発注書で追加の条件を提案したとしても、その条件は無効とみなされる。」

「買主が発注書で提案したいかなる追加の条件も無効とみなされる」とも訳せますが、今回のanyは、前回のany reasonやat any timeのanyよりも文章中で持つ意味合いが弱く「もしあれば」のような意味合いで使用されています。ですから「いかなる」と訳すと、文章中で浮いてしまうのです。この場合は、anyを無理に訳出してしまうよりも「~したとしても」と節にして処理した方が具合が良いようです。

・Any disputes between the parties hereto in connection with this Agreement shall be brought to the Tokyo District Court.

「両当事者間で本契約に関連する紛争が発生した場合、東京地方裁判所に提起するものとする。」

辞書の 3. a. に従うと「本契約に関連する両当事者間のいかなる紛争も、東京地方裁判所に提起するものとする。」となります。この1文が条文の始めにある場合、この日本語には違和感があります。紛争の発生という情報がなく「紛争」という情報が出てくるので、唐突感があるのです。このように初めて出てくる情報にanyが付いている場合「~の場合」と訳出すると自然になる場合があります。

辞書は翻訳者にとって、なければならない武器です。辞書の表記をそのまま使ってうまくいく場合もありますが、その字面にとらわれ過ぎると、不自然な日本語になることが多々あります。辞書の表記だけにとらわれず、英単語の持つ意味合いをとらえ、その場に合った訳文を充てることが大切です。


上記に挙げた例はどれも短く簡単な文章ですが、英文契約書は1文が長く難解なことも多いので、anyのような基本的な単語であっても、上記のように読みやすくする工夫を1つ1つ積み重ねることで、スッキリと分かりやすく、一読で理解できる契約書ができあがります。


正確さが最も大切とされ一見無味乾燥で難解な契約書ですが、限られた自由度の中で恐れることなく最大限工夫することで、契約書の翻訳を楽しみつつ、読みやすいものにできるでしょう。


 

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N.O.

国際基督教大学卒業。在学中オーストラリアに留学。卒業後、四大法律事務所の1つでパラリーガルとして主に証券関連の契約書、開示文書、訴訟関連文書等の翻訳を担当。2012年からフリーランス翻訳者。主に法律分野の日英・英日翻訳。

 



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