中国語と古典【中国語ホンヤクの世界】

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英語以外の言語の翻訳事情や、仕事のエピソード、スキルアップ情報などを、翻訳者がリレー形式で紹介します。今回は「中国語ホンヤクの世界」。中日翻訳のときに苦労する古典作品の引用について、翻訳者の竹内信介さんがお話します。

 

中国語の翻訳をしていて困るのが漢詩や古典からの引用です。日本でも政治家が漢詩や古典を引用することはよくありますが、中国の新聞などを読んでいても、A市の市長が論語を引用したり、共産党のB氏が漢詩を引用したりしているのをよく目にします。

論語の有名な一節が引用されているくらいならこちらもついていけるのですが、モノが中国では一般的でもこちらではまったく目にしたことのない漢詩であったりすると、発話者が誰の言葉をどういう意図をもって引っ張ってきたのかを調べるのはなかなかに骨の折れる作業です。

温家宝元首相が記者会見で楚辞(そじ)注1の「離騒(りそう)」を引用した際の発言を見てみましょう。
 (注1)中国・戦国時代後期の楚国で謡われた詩の形式。「離騒」はその代表作。

我深深愛着我的国家。没有一片土地譲我這様深情和激動,没有一条河流譲我這様沈思和起伏。亦余心之所善兮,雖九死其犹未悔。我将以此明志,做好今後三年的工作。

前半は「わたしは我が国を心から愛しています。わたしの心をこれほどまでに動かし、揺さぶる山河はほかにありません」くらいでしょうか。この部分が「病句」(論理的・文法的に誤りのある文)ではないかと一部ネット界隈で話題になりましたが、それはさておき、その次の一文が引用部分です。

読み下すと

また余が心のよしとするところ、九死すといえどもそれなおいまだ悔いず

となります。このままではさすがに何のことやら分かりませんので、現代語訳に置き換えるか、読み下しの後に括弧書きで現代語訳を挿入する必要があるでしょう。

楚辞については、粽(ちまき)でおなじみの屈原 注2によるものであることは諸姉諸兄もご存じの通りです。その中のこの「離騒」ですが、屈原が讒言によって王に追放され、失意のあまり投身を決意するまでの心境を詠ったものとされており、引用部分は追放された屈原が「自分の信条を貫いたのだから、何度死ぬことになっても悔いることはない」と決意の強さを表しているところです。
 (注2)中国・戦国時代の楚国の政治家、詩人。楚辞の主要な作品の作者とされる。

温元首相のこの発言は2010年の「両会」(全国人民代表大会と中国人民政治協商会議)期間中の記者会見でのものであり、リーマンショック後の金融危機に対応するため、中国が積極的な公共投資などを行って経済を下支えしていた時期の発言となります。欧米などに比べれば、いち早く危機を脱したように見えた中国ですが、上層部は難しい舵取りを迫られていたのでしょう。

この会見は「この2年間は本当にきつかった」という弱気なコメントで幕を開けています。ですから、そういう状況だけれどもこの国を愛するわたしは引き続き頑張っていく、という決意表明としてこの漢詩が引用されているということ、引用されているのが上述のような背景を持つ漢詩であることを頭に入れておく必要があります。上記の試訳でほぼ問題ないと思いますが、微修正して「自分の信条を貫けば、九死を受けても悔いはなし」としてみました。

そして、最後の一文「わたしはこの言葉を胸に、今後3年の仕事にあたります」を加えて訳文は完成となります。

わたしは我が国を心から愛しています。わたしの心をこれほどまでに動かし、揺さぶる山河はほかにありません。自分の信条を貫けば、九死を受けても悔いはなし。わたしはこの言葉を胸に、今後3年の仕事にあたります。

ちなみに温元首相は「離騒」のこのくだりがお気に入りのようで、親族の不正蓄財疑惑が持ち上がった際も「また余が心のよしとするところ……」で乗り切っています。TPOでいろいろと使い分けができるようですね。

今回はよく知られた「楚辞」からの引用でしたので、検索しただけで相当数の資料を確認することができましたが、それでも75文字の原文から訳文を構築するまでにかなりの時間を要しました。マイナーな詩が引用された場合は図書館や大型書店に走り、資料の山と格闘することになりますので、作業時間はさらにふくらむでしょう。机の前に座りっぱなしの姿を想像されがちな翻訳者ですが、調べ物の際はけっこう外を走り回っています。

(注)この記事は、2014年5月に「サイマル翻訳ブログ」に掲載されたものです。

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竹内信介(たけうちしんすけ)

メーカー勤務を経て翻訳者として独立。翻訳歴は約20年。自動車、医薬、機械などの実務翻訳、チェック業務に従事。オンライン辞書「北辞郎」の開発者+管理人。

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