英語以外の言語の翻訳事情や、仕事のエピソード、スキルアップ情報などを、翻訳者がリレー形式で紹介します。今回は、韓国語ホンヤクの世界。執筆者の矢野百合子さんが、ふだんインターネットや翻訳ソフトをどのように活用しているのかについて、前編・後編にわたってお話します。
前回は現在の機械翻訳の限界について書きました。しかし、内容の概略さえわかればいいというレベルの翻訳は、これからは機械翻訳が増えていくかもしれません。依頼者にとっては発注の手間もお金も必要ないのですから。ヒトの翻訳者には、社会や技術の変化に柔軟に対応しつつ、正確に文章を構成していくハイレベルの翻訳力が、今以上に求められる時代になるでしょう。
一方で、大量の文書を一瞬で訳してくれる機械翻訳の利便性は翻訳者にとっても捨てがたい魅力です。常用漢字にない漢字が混じる韓国の地名や人名をいちいち探さなくても済みますし、やたらと長い漢字熟語を何度も打たずに済む利点もあります。というわけで、今回は、翻訳者がネットや機械翻訳をどのように利用しているかについて、実際の翻訳作業(韓→日訳)の手順に沿って書いてみたいと思います。(あくまで個人的な一例です。)
依頼が来た!
エージェントを通して、韓国K社の新製品に関する文書の翻訳依頼が来ました。翻訳発注者はK社と取引のある日本のJ社です。
まず文書にさっと目を通してからネットでK社のサイトを確認し、商品の概要を調べます。私にとっては未知の技術ですから、まず商品の一般的な宣伝文を読んで、その商品が何にどう使われるか、他社の競合製品との違い(どこがウリなのか)を知るところから始めるわけです。仕様書が見つかれば保存します。
次に「K社 商品名」「K社 J社」「K社 J社 商品名」など、複数のワードで検索をかけて、業界紙の紹介記事や、二社の提携関係について見ていきます。この過程で気になるフレーズが見つかればそれも調べます。案件によっては発注元が伏せられていることもありますが、発注者がわかったほうが翻訳しやすいので、可能な限り推理力を働かせます。ここまでは韓国語だけでの検索です。
さらに日本語で同じように検索をかけて、J社の概要や過去の商品、日本でのK社紹介記事、日本国内の関連技術の動向や競合品などもチェックします。発注者(J社)がわかった方が翻訳しやすいのは、この段階でJ社が使っている用語が把握できるからです。その商品でなくても、関連商品の宣伝文や仕様書、技術の解説、社内技術者が学会誌などに投稿した論文が見つかれば、この会社ではこういう事象をこう表現しているという「発注者が使う用語」を知ることができます。
最初に原文に目を通す時に、分量の多いWordファイルなどは、スマホやパソコンの読み上げ機能を使って、音声で概要を把握することもあります。耳から入れたほうが短時間で済みますし、耳と目を同時に使えば、うっかり読み飛ばすこともありません。
翻訳開始
ある程度の情報を仕入れたところで翻訳開始です。ネット上にある文章はネット上で翻訳できますが、仕事として依頼された文書は「ネット上で翻訳してはならない」が鉄則です。ただ、翻訳していると、どうしても自分の訳に満足できなかったり、文脈の捉え方はこれで正しいだろうかと不安になることがあります。そんな時は守秘義務に抵触しない範囲、つまり、商品名や関連企業名、当該技術名などの固有名詞が含まれないフレーズや地の文だけをネット辞書や翻訳サイトでチェックするに留めます。
たとえば次の文章でABCDが企業名だとすると、
青字の部分は企業・製品名なので検索はNGです。文末の웃을 처지는 못된다の訳が不安だという場合は、その部分だけをチェックします。実際にやってみたところ、papagoは「笑う訳にはいかない」と訳してきました。そこから類推して次のような訳になりました。
※下線部は助詞の置換え。
実は翻訳者にとってネット環境で一番ありがたいのは翻訳アプリではなく、類語辞典が充実していることです。上の文でも、最初は「笑ってはいられない」でいいかなと思いながら類語辞書をあけると「内心で笑うさま」の項に「ほくそ笑む」があり、C社とD社の熾烈な関係を考えてこちらを採りました。
技術用語集や図面をその場で参照できるのもネットのおかげです。最近はネット上に動画をアップしている企業も増えました。半導体の製造工程や土木技術などで、たとえば덮다が「覆う」なのか「被せる」なのか、덮개が「蓋」なのか「覆い」なのか、끝 부분が「縁」なのか「先端」なのかわからない時など、心の中で「どこに何をどうするんじゃい!」と文句を言いながら、ネット上で動画や図面を捜しまわっています。
訳文の完成度で一番悩むのが「品詞セット」の違いです。同じ漢字文化圏であるからこその悩みですが、名詞のセットでも、핵심 의제(核心の議題)や원천기술(源泉技術)のように、漢字を見れば意味はわかるけれど日本語として落ちつかない言葉がたくさん出てきます。
動詞でも、
は「倒壊する恐れ」ではないのか? こういう状況でこの語彙はあまり使わないよね、という時は、類語辞典でこれぞと思うものをいくつかピックアップして、google検索の「設定→検索オプション→語順完全一致」で日本での使用例を確認。ヒット数の多いものを業界名や技術名と一緒に検索して、その業界で本当に使われているかを確認していきます。
大切なのは常に自分の「常識」を疑うこと。たとえば、비열등(非劣等)という聞いたことのない単語でも、製薬業界では普通に使われていたり、一般によく知られる임상시험(臨床試験)という単語が、念のために調べてみると日本では「臨床試験」と「治験」に分かれていることもあります。
翻訳をしていると毎回のように素人の知識不足を思い知らされて凹むのですが、一方で、翻訳する度に知識が増えていく楽しさもあります。すぐ忘れるのが難点ですが……。
ちなみに、원천기술という言葉は2000年代の中盤に定着した新造語で、この技術をめぐる裁判の判決文では(1)ある製品の生産に不可欠な核心技術で(2)他の技術に依存しない独創性があり(3)多数の技術に応用可能な生産性をもつ技術と定義されています。
しかし、実際には(1)と(2)の一方だけの意味で使われることが多く、それに合わせて「コア技術」「独自技術」などと訳されてきました。ところがここ数年、ネット上に韓国語からの直訳が増えたせいか、最近では日本企業のサイトなどでもたまに「源泉技術」という言葉を見かけるようになってきました。ITの発達で言語の相互干渉が進んでいるのかもしれません。翻訳語もこうした変化に対応して変わっていくのだと思います。
大学卒業後に韓国に留学。研究者を目指すはずが、いつの間にか通訳・翻訳が主な仕事に。好きな言葉は인생은 나그네 길(人生は放浪の道)。流された先で頑張ればいいと自然体で生きています。人間ひとり、猫2匹と同居中。
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