小松達也 ロング・インタビュー<前編>:プロとして学び、働き、生きていく

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この方の通訳者としての歴史は、そのまま戦後日本の通訳の歴史でもあると言っても過言ではないかもしれません。今回「通訳・翻訳ブック」では、サイマル・インターナショナル(以下、本文中ではサイマル)55周年記念企画として日本の同時通訳者の草分けでありサイマル創業のおひとりでもある小松達也さんにお話を伺いました。通訳者になった経緯、サイマルを作ったきっかけ、通訳者人生で影響を受けた人々、通訳の魅力などを前・後編2回にわたってお届けします。

 

小松達也(こまつたつや)

東京外国語大学卒。1960年より日本生産性本部駐米通訳員を経て、1965年まで米国国務省言語課勤務。帰国後、サイマル・インターナショナルの設立に携わり、以後、社長、顧問を務める。日本の同時通訳者の草分けとして、先進国首脳会議(G8サミット※1)、APECなど数多くの国際会議で活躍。サイマル・アカデミーを設立し、後進の育成にも注力した。サイマル関係者の間ではTKの愛称で親しまれている。

通訳者人生の始まりは、学生時代

――TKが通訳を始められたのはいつ頃でしょうか。

小松最初に始めたのは学生時代です。大学2年の時から観光ガイドをやっていたんですが、本格的なものは原水爆禁止世界大会からですね。当時は学生がアルバイトとして多く参加していました。1955年の第1回大会では先輩が通訳者、僕が翻訳者として携わったのですが、翌年からは通訳者として参加しました。

初めの頃は逐次通訳を行っていました。その当時、同時通訳は日本ではまだあまり知られていませんでしたね。それからしばらく後に、大規模な世界会議などでの言語が日本語、英語だけでなく、フランス語やドイツ語、ロシア語、スペイン語なども含まれるようになったため、逐次通訳での対応は現実的に難しく、次第に同時通訳が行われるようになっていったと思います。

ワシントンに駐在し「昭和の遣唐使」を通訳

小松:その後、日本生産性本部の駐米通訳者になりました。当時、日本生産性本部と通産省、アメリカの国務省が組んだ財界訪米ミッションがあったんですよ。戦後の経済再建のために日本のビジネスマンを大勢アメリカに派遣し、生産性について学ばせるというものでね。そのビジネスマンのための通訳者が必要とのことで、募集がありました。

僕も大学4年の時に応募して、どういうわけか受かりましてね。卒業後、アメリカ国務省言語課の通訳者としてワシントン駐在となりました。日本からの視察団をサンフランシスコで迎えて、あちこちの工場や会社を回って通訳をしていました。1ヵ月くらいのツアーみたいにしてね。アメリカから多数の知識や概念、体験を持ち帰ったため、日本の視察団は「昭和の遣唐使」なんて呼ばれていましたよ。当時、生産性本部の通訳者が50~60人くらいいたから、日本からのビジネスマンがどれほど多かったかわかるでしょう。井深大さん※2とか、その当時の企業の社長や部長など多くの人がアメリカで学び、帰国後、日本の戦後復興に大きな貢献を果たしました。

――当時の通訳は今とはだいぶ機材や状況も違いましたか。

小松:そうですね。その頃の同時通訳の機材は今とは違ってかなり大きくて重くてね。それを担いで使って、同時通訳をやっていました。今と違うと言えば、僕が大学生の頃は、通訳のためのトレーニングの場やツールというのは一般的にはなかったですね。

生産性本部の試験に受かった後、国務省でトレーニングを受けましたが、これは今でいうリプロダクションです。訓練官が2~3行の英文を読んで止めると、通訳ブース内の僕達が一言一句落とさずに英語のまま繰り返すというのを毎日1~2時間、3週間ほど続けました。単純ですが、非常に集中力もつきますし、通訳のトレーニングとしても役に立ったなと思います。

アメリカ時代の仲間とサイマルを創業

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1990年代のサイマル会社案内より一部抜粋(左:村松増美さん、右:小松達也さん)

帰国後、日本でも通訳者として本格稼働

小松:生産性本部での通訳では、毎日本当にいろいろやりましたよ。今日は鉄鋼、明日は繊維、次は小売業……。色々な産業のビジネスマンが来るのでね。そういう通訳をすると、言葉だけじゃなくて内容を覚えるわけ。それがやっぱり僕や同じ通訳課の通訳者の強みでした。そういうのを5~6年やっていました。

――その後、日本に帰国されたのですね。どのような状況だったのでしょうか。

小松:先に帰国していた「昭和の遣唐使」なんかの活躍もあって、日本でも色々なシーンで通訳が必要になっていたんです。アメリカで一緒だった村松増美さん※3や國弘正雄さん※4なんかと、色々なところから通訳を頼まれるようになりました。それで「これはちょっともったいないから会社を作ってやろうじゃないか」という話になって、サイマルを創ったんです。それが1965年。この頃は通訳というものが職業としてようやく成立し始めてきた時期でもあるかなと思います。

さっきも言ったように、一般的には通訳のトレーニングなんて場もなかったですからね、よく通訳者で集まって勉強会をしていました。ちょうどその頃、斎藤美津子さん※5がICU (国際基督教大学)で通訳クラスと言うのを始めたんですよ。サイマルで活躍している長井鞠子さんや後のそうそうたる通訳者もそこで学んだから、斎藤さんの役割というのはとても大きかったと思います。

サイマル・アカデミーを設立し、優秀なプロの通訳者を養成

小松:僕ら、第1世代の通訳者は男ばかりでした。サイマルを作った当初、外務省に女性の通訳者を送ったら、男性がいいと言われたこともありましたよ。今では考えられないことですが、時代ですよね。「非常に優秀な通訳者なんです。だめだったらお金はいただかなくて結構ですから」と何度も説得して、やっと承諾してもらって。それで実際に通訳をしたら、先方も彼女たちがとても優秀だとわかった。そこから女性通訳者が活躍するようになったんです。今や通訳と言えば女性が多い職業になりましたけれどもね。

サイマルを作った当初は男性通訳者5~6人と斎藤美津子さんのクラスの学生さんがアシスタントとして数人でやっていました。アシスタントといっても、とても優秀ですからね。そういう人がどんどん増えていって、政府関係など案件も多く受注するようになりました。その後、優秀なプロの通訳者を育てたいという思いで1980年にサイマル・アカデミーを作りました。アカデミーで訓練をして、卒業したら通訳者としてサイマルに入ってきて。そうやって通訳を生業とする人が増えていったんですよね。

――そんなサイマルも2020年に55周年を迎えました。

小松:55周年! そうですか、もうそんなに経ちますか……。早いものですね。今もたくさんの通訳者翻訳者の皆さんがサイマル登録され、国内外で活躍されているのは本当に嬉しいです。

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※1:現在のG7サミット
※2:ソニー株式会社の創立者

※3:「ミスター同時通訳」と称された会議通訳者。アポロ11号の月面着陸のテレビ中継で同時通訳を務めた。
※4:同じくアポロ11号の月面着陸のテレビ中継で同時通訳を務めた通訳者。「同時通訳の神様」の異名をとる
※5:同時通訳者。国際基督教大学教養学部で教鞭をとり、後進の育成に尽力した

『通訳・翻訳ブック』編集部

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【続きはこちらから】ロング・インタビュー後編 

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