行きどまりのない道【1年目の私へ】

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 現在活躍している通訳者翻訳者の方々にご自身の「プロデビュー1年目」をふりかえり、その頃の自分への手紙をしたためてもらいました。題して「1年目の私へ」。第1回は翻訳者の桧垣さゆりさんです。デビューしたての自分へどのような言葉をかけるのでしょうか。

まったく成功の見込みがない中で、勇気を振り絞って翻訳の世界に飛び込んだ1年目の私に「Good job!」の言葉を贈ります。その一歩が、あなたの人生を大きく変えますよ。

雇用機会均等法もない時代に社会人になり、上司からは「ウチの女の子」と呼ばれ、結婚したら専業主婦になって家庭の全責任を負うのが当然と言われて、十数年間それなりに頑張ってきました。そして子どもが成長し「家庭と両立しやすそう」と目指した仕事が翻訳者でした。

とんでもない話です。家事の合間にできるような簡単な仕事ではありませんでした。

欧米の学位を持っていたり、外資系金融機関でキャリアを積んでいたり、翻訳書を何冊もヒットさせていたり。そんな人たちがひしめく世界に飛び込んでしまい、強烈な場違い感で呆然としていた1年目の私。不安は大きかったけれど、ともかく「この道が行き止まりになるところまで、行ってみよう」と覚悟を決めました。

産業翻訳には「語学力」「専門力」「調査力」が必要だと言われます。私は致命的に欠けている「専門力」を養うため、ひたすら本を読んで財務会計や経営戦略の勉強をしました。そしてチェック(校閲)の依頼を受けたら、とにかく時間をかけて調査しまくりました。ベテランなら軽く目を通しただけで「ああ、あの話ね」と分かるような内容を理解するのに、ネットを検索したり、図書館へ行ったり、都心の大型書店に出かけたりして、丸一日かかってしまうこともしょっちゅうでした。

非効率すぎて「これは仕事と言えるのか?」と疑問を持ったこともありましたが、とりえがないことが逆に幸運だったかもしれません。他に特技があったら、たぶん翻訳は諦めて別の道を目指していたと思います。

そんなとき、追い風が吹きました。

私が翻訳を始めてしばらくしたころ、中国などの新興国がどんどん豊かになり、それにともなってヨーロッパの高級ブランドがこぞってアジア事業を拡大。翻訳案件が増えてきました。私は、何とかして、これを専門分野にできないかと考えました。当時の翻訳業界では比較的新しい分野だったので、ベテランと同じスタートラインに立てそうだと思ったのです。

何より、消費者をときめかせることが上手なラグジュアリーブランドですから、関わっていて楽しいのも魅力でした。

初めて手掛けたのは、某有名ブランドの化粧品の紹介文でした。魅力的な日本語にするには、まず商品の魅力を知らなければと思い、デパートへ出かけ、値段に気を失いそうになりながら、いくつか商品を手に入れました。その後も、翻訳の依頼があるたびに商品を買い、カウンターでBA(ビューティー・アドバイザー)さんにいろいろ質問しました(もちろん、翻訳者であることは隠して)。ときには複数のデパートをはしごしてみると、どのBAさんからも共通して出てくる言葉があって、ブランドの考え方がとてもよく分かり、楽しかったりしたものです。

それから、同業の友人と一緒に銀座のブティック見学ツアーをしたこともあります。入り口に黒服のメンズが立っているようなハイブランドのお店に入るのは、かなり勇気がいるけれど「これも仕事のため」。ブランドの世界観を表現するためには、まず自分がそれを体感しなければなりません。

翻訳をしていると、現場体験の大切さを実感することがよくあります。あるとき、香水の使い方の文の中に「trail」という言葉が出てきました。調べてみると、「対面しているときは何も感じないが、立ち去ったあとで感じられるほのかな香り」とあります。私は混乱しました。そんなことは物理的に無理じゃない? 「trail」っていう単語はもともと「船の航跡」っていう意味だけど、ここでは何のことを言ってるの?

 

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パリの街並み。現地を見るのも勉強です。


その疑問が解けたのは、パリへ旅行したときです。住宅街の狭い歩道を、向こうから若い女性がベビーカーを押しながら歩いてきます。子育て中とは言え、さすがはパリジェンヌ。とてもおしゃれないでたちです。その人とすれ違って、ひと呼吸おいた後、ふんわりととてもいい香りが漂ってきました。私は思わず振り返りましたが、その人はもう、数メートル先に遠ざかっていました。ああ、これがtrailなのね。おそらくパリの気温や湿度、風のぐあいなどが関係しているのでしょう。日本にいては、理解できなかった言葉です。


1年目の私は「行きどまりまで行く」と、辞めることを前提に仕事をしていました。でも、暗闇の中を手探りで進み続けて十数年たった今も、まだ行きどまりには突き当たっていません。それどころか、新しい道が次々にひらけていきます。相変わらず一寸先は闇ですが、自分の弱点を知り、成長する心を忘れなければ、この先も道は続いていくのかもしれません。



 

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桧垣さゆり(ひがきさゆり)

サイマル・アカデミー産業翻訳コース受講を経て、2006年からサイマルインターナショナル登録翻訳者。経営戦略、財務、人事などのほか、ラグジュアリービジネス、観光などの分野で英日翻訳に従事。




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