最終回 聴衆は誰か【医薬通訳事始め】

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医薬業界と他の業界との違いや、医薬に関わる通訳業務の種類、必要な知識、業務に取り組むにあたっての心構え、勉強方法などについて、医薬業界における通訳の第一人者である重松加代子さんが4回にわたってお話しします。最終回のテーマは「聴衆は誰か」です。

多様な聴衆の存在を知る

第2回第3回は知識の観点から書きましたが、最後に通訳者としての心構えについて述べたいと思います。 

 

医薬通訳の場合、通訳をする対象はかなり幅広いです。製薬会社の社内会議であれば、研究開発の関係者、学術(medical)部門、製造部門、薬事部門、営業部門から経営陣までさまざまで、臨床試験の場合には外部の医薬品開発業務委託機関であるCROのスタッフ、医師、看護師、薬剤師などが関わります。

 

外部での講演会の場合には、医師向けのものと医師以外の医療職向けのもの、その両者が参加しているもの、医師向けであっても、大学病院で医療をしている医師の場合と、開業医の場合があり、加えて一般市民向けのものもあります。また、患者家族を対象とした会議もあり、会議の後で記者会見が開かれることもあります。

 

さらに最近では、企業や患者を含めた市民から法の整備を求めて立法機関に訴えることも増え、それに応えるために特定の議員連盟が形成されています。そういった場に海外からの演者または聴衆が加わると通訳者が同席し、通訳業務を行うこととなります。

 

上述した聴衆の例でおわかりのように、医薬通訳と言ってもその聴衆はかなり幅広く、その人たちの持つ知識の範囲が大きく違っており、また演者の話を聞く姿勢も異なります。どのような言葉を使って訳すかは、聴衆によっても異なります。

 

ある医療機関で私が専門用語で医師と会話をしていた時、その医師は同席していた家族がその言葉を理解していないことに気づき、わかる言葉で会話の内容を繰り返してくださいました。その医師が聴衆を理解している態度がとても印象深かったのを覚えています。通訳をする場面でも、その点を考慮しなければ「あの通訳は……」という否定的なフィードバックを受け、通訳者はその後、落ち込むこととなります。私自身も経験しましたが、特に経験年数の浅い時には強烈なダメージとなることもあります。

 

そのような状況の発生を完全に回避することは不可能ですが、少しでもその状況を回避するための手段として聴衆が誰かを考えて、私たちの通訳の仕方を少しかえるだけで、違いを生み出せます。

「本人」の母?

聴衆を知ることの重要性を最初に知ったのは、通訳を始めて5年目に「てんかん会議」で通訳をしたときのことでした。医薬分野での経験も数えるほどで、しかも脳神経領域の会議は初めてでした。新米通訳者として必死で予稿集から単語を抜き出し、日本語、英語を医学辞典で探して一覧表を作り、必死で覚えて臨みました。全て英語発表の会議で、1日目はtonic clonic status epilepticus(強直間代発作)、absence status epilepticus(欠伸発作)、amygdala(扁桃体)、temporal gyrus(側頭回)などしどろもどろで言い慣れない単語を発することに。

 

1日目の終わりにやっと少しスムーズに変換できるようになったかなと思った矢先、主催者の先生から

「通訳さんは一生懸命英語を日本語にしてくれているけれど、私たちは普段英語で言っているから、日本語にされるとそれをまた自分たちの頭で普段使っている英語にしなければならない。それは疲れるので、専門用語は全部英語のままにしてほしい」

との依頼が。今までの1日の苦労は何のためだったのかと、がっかりするような、どこかでホッとするような気持ちで1日目を終えました。

 

2日目には、今度は一度確立した英語から日本語への回路を断ち切る作業が加わりました。反射的に日本語にしようとする気持ちを「ダメダメ、これは英語で出すのだ」と自らに言い聞かせるので、それもまたぎこちない通訳作業となりました。この会議は4日間と長丁場で、4日目にはやっと専門用語はそのままでよしという回路が定着して終わりました。

 

そこで終われば「終わり良ければすべてよし」だったのですが、5日目にポストコングレスイベントの市民向け会議がありました。4日目が終わった時点で会議事務局から、

「ご苦労様でした。明日は市民向けなので、専門用語はすべて日本語にしてください。」

という指示が届きました。いったん切ってしまった回路を復活させなければなりません。これもまた一苦労。当日は必死の思いでまた最初のtonic clonic status epilepticus(強直間代発作)、absence status epilepticus(欠伸発作)、amygdala(扁桃体)、temporal gyrus(側頭回モード)に戻す始末。

 

しかも質疑応答の時に今まで聞いたことのない発言が。「私は本人の母です。」「本人の母、いったいどう訳せば良いのだろう?"I am a mother of a person."でもなかろうし。」もうその時点で頭の中は真っ白、そのあとは「本人」をどう訳すかに集中してしまい、他のことが考えられなくなってしまいました。

 

今なら"I am a mother of a patient."と言えるのですが、経験がないということは本当に辛いものです。神経内科や精神科の分野ではその頃患者のことを「本人」と呼ぶことがよくありました。てんかんの「患者」と呼ぶことへのスティグマを避けるため、また実際に一回発作を起こした、または脳波異常があってもその後きっちり薬でコントロールすれば発作を起こさない人も多いので、患者と呼ぶことへの抵抗があったようです。

 

まだ障害のある人についての報道も少ない時代で、いろいろな表現に接することのなかった私たちは大慌てでした。その後障害の分野では、本人とか当事者という言葉が使われています。今は障害者という言葉も、障害はその人を規定する形容詞ではないという論点から「障害のある人」と置き換えられることも多く、同じことががんのサバイバーの方たちの間でもみられるようになりました。

 

通訳者はここまで気を使う必要があるのかという意見もありますが、これは社会がその方たちに対して示す差別的態度に由来しているので、私たちの住む社会で真に差別がなくなれば言葉を気にすることもなくなるのでしょう。ご本人や家族の気持ちを考えるとその要求は当然のことだと思われます。通訳としての業務範囲で考えるのではなく、一市民として聴衆に対する配慮は行うべきではないでしょうか。

聴衆の立場になって考える

上記の事例が示すように、聴衆が医師や研究者、医療者である場合には、冷静に科学的に、正確に訳すことを第一にクールな対応が必要ですが、医療を受ける側の人や一般市民が対象の場合には相手の気持ちへの配慮や、相手の理解できる言葉で訳すことを心がけることが大事ではないかと思います。

 

相手への思いやりに関して、もう一点重要なことがあります。それは発話の速さと明瞭さです。ややもすると、特に演者が早口の場合、通訳はそれに輪をかけて早口となり、早口となるがゆえに構音が曖昧になることがあります。通訳を聞き慣れている専門家は私たちが早口で喋っても、ご自身の知識で補って聞いているので許されるかとは思いますが、普段通訳(特に同時通訳)を聞き慣れていない方にとって、通訳用レシーバーを耳にかけて音を聞くことがまず一苦労なようです(通訳用レシーバーは多くの人が使うので、すべて耳にかけるタイプになっています)。

 

さらに、聞き慣れない専門用語を早口で話されると何を言われているのかわからないとのコメントをよく耳にします。これも演者が早いのだから仕方ないと言えばそれまでですが、少しでも聴衆の立場に立って理解しやすい話し方をすることが必要だと思います。聞いている人に伝わらなければ私たちの存在意義がなくなります。早口にならざるをえないとしても少しでも語数を減らせばその分ゆっくりしゃべれます。言い直しを出来るだけなくす、「え〜」「あ〜」や「というもの」などを削るだけでもかなりの時間の節約になります。

 

またよく言われることですが滑舌(構音)が良いとゆっくり聞こえ耳に入りやすいので、滑舌練習を欠かさないことも大事です。アナウンサーの話す語数は普通の人よりはるかに多いのに、そう聞こえないのは滑舌の賜物です。

最後に

拙い文章で十分に述べきれなかったこともありますが、4回のシリーズを読んでくださってありがとうございました。製薬医学の分野の通訳として、やること、知らなければならないことがたくさんあるかと思います。しかし、どの分野で通訳をやるとしても、私たちの存在意義は他者理解が基本です。ただただ正確さだけを追求した場合、いずれはAIに負けてしまうでしょう。それに加えて相手の立場を考える、その部分が通訳者と機械翻訳、通訳の差別化ポイントです。

 

みなさん、聴衆が誰なのかを意識した通訳を心がけてください。それが聴衆の側の理解を深めるために重要です。聴衆が理解できているかを判断するためには、聴衆をしっかり見る必要があります。時に、顔を上げると聴衆から「違うだろう」のサインが送られているのを見るのが怖いので、ついうつむいたまま通訳することもあるかと思いますが、しっかり聴衆の反応を見てください。そうすることで「あ、ここはもう少し工夫が必要だ、知識が必要だ」という自分の振り返りにつながります。

 

また相手を理解するということには話し手の理解も含まれます。時に通訳者側の事情から、特に逐次通訳の場合「一文ずつ区切ってください」と依頼することもあります(ある化学や物理の会議で、物質の長―い名前が出てくる逐次ではそれ以外対応できなかった経験もあります)。しかし、この時には話者にかなりの負担を求めていることを意識しておきましょう。人は一文ずつ話を止めると、思考回路が繋がりにくくなります。

 

通訳していてよかったと思う瞬間、それは聞き手から「わかりやすく、聴きやすかった」と言われ、話し手から「ストレスなく楽に喋れた」というフィードバックをもらったときです。そんな瞬間を1回でも増やすべく、お互い努力しましょう。ブースの中で皆さんとお会いできるのを楽しみにしています。

重松加代子
重松加代子(しげまつかよこ)

医学、薬学分野での通訳の第一人者。通訳歴は40年近くに及ぶ。圧倒的な知識と通訳スキルで、各種医学学会、セミナー、会議などの同時通訳者として活躍。また、県立広島大学にてコミュニケーション概論特別講義の講師も務めるなど、多方面にわたり精力的に活動。主な通訳実績は、数多くの機構相談をはじめ、慢性がん看護学会、日本精神神経薬理学会、日本胸部外科学会、日本薬学会、日本整形外科学会、アジア皮膚科学会、アジア慢性医療学会など。

【最初から読みたい】医薬通訳事始め 第1回

 

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